城名 九戸城(別名:福岡城、宮野城)
住所 〒028-6101
岩手県二戸市福岡字城ノ内、松の丸
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 悌郭式平山城
天守構造 不明
築城主 九戸氏
築城年 明応年間(1492〜1501)
主な改修者 蒲生氏郷
主な城主 九戸氏、南部氏
位置 北緯40度16分2秒
東経141度18分12秒
100名城
スタンプ
スタンプ
設置場所
・九戸城ガイドハウス(4月中旬〜11月)
 
基本毎日開館
・二戸市埋蔵文化財センター
 
休館日:月曜、休日の翌日(土日は除く)、12/29〜1/3
登城日 一回目:2009年5月3日(日)
二回目:2023年5月2日(火)
LINK 日本中世終焉の地 九戸城跡
二戸市HP 九戸城跡
九戸城-Wikipedia
城主家紋 【対い鶴】
(清和源氏南部氏流)
九戸家家紋
【南部鶴】
(清和源氏義光流)
南部家家紋

【概要】
九戸氏が明応年間(1492〜1501)頃までに築城。天正8年(1580)南部24代藩主晴政死去。晩年まで嫡男がなく娘婿の田子信直を後継者としていましたが後に男子(25代晴継)が誕生し撤回、晴政の死後、信直支持派と晴継擁護の九戸派が対立、晴継も13才で謎の死を遂げ、混迷の中で信直が26代目を継ぎます。
天正18年、秀吉は小田原城攻略後、奥州仕置を開始。小田原に参陣しなかった諸将を追放しますが仕置軍が去ると残党が蜂起し不穏な状況でした。この機に乗じて九戸政実は翌年3月挙兵。善戦しますが、9月1日に奥州再仕置軍6万が馬淵川流域に襲来。九戸軍5千。しかし、難攻不落の九戸城を前に苦戦と疲弊の仕置軍は4日軍監浅野長政が一計を案じ、九戸氏の菩提寺である長興寺の和尚を使者に、政実の武勲を称え女子供や家来衆の命と引換に降伏を勧告、政実はそれを受け開門しますが、実は謀略で、軍勢がなだれ込みあえなく落城。女子供も撫斬りにされました。政実が処刑された宮城県三迫には九戸神社や首洗いの池が残っています。
これで秀吉の全国統一が完了。名実ともに配下の戦国大名となった南部信直に蒲生氏郷に命じ改修した九戸城を和賀・稗貫・志和の三郡とともに授けました。信直はこの城を福岡城と改め居城としました。
しかし、この地が支配地の北に偏りすぎているため、新たに盛岡城の築城工事に着手。寛永13年(1636)27代利直が盛岡城に本拠を移すと、九戸城は廃城となりました。


【感想】
九戸の乱の戦場がこの場所であり、難攻不落の名の通り自然の要害に守られていた城だと周囲を見て回るとよくわかります。また、曲輪(東北では館となっている)ごとに堀を巡らしているのもわかります。

                      

探訪〜2009年5月3日(日)〜

城内案内図

九戸の乱-御陣図
【九戸城跡のパンフレット入れ】
九戸城入り口付近に立つポストの中にパンフレットが入っています。
【ニの丸と松の丸・在府小路の間の堀跡】
在府小路は武家屋敷跡のこと。
底で幅が60mもあり日本の城跡で見られる堀跡としては最大級の立派なもので、城の時期によっては水堀であった可能性もあります。
松の丸側より撮影、正面は二の丸。

【松の丸梅園跡】
九戸政実縁の庭園と伝えられる「古梅園」の老梅・「六弁の梅」からの苗木を分けたもので、通常梅は花弁が5枚しかありませんが、6枚ある珍しい梅です。
【松の丸】
九戸城落城後に福岡城の主郭あるいは御仮屋として南部藩主がいた場所です。九戸城と福岡城の正確な位置関係はまだ不明ですが、盛岡城が名実ともに南部氏の主城となるまで20年の間南部藩の根城でした。

【大手門跡】
【ニの丸跡トイレ】
このトイレは発掘調査によって九戸氏時代もしくはそれ以前に建物が建っていた場所に合わせて建てられました。付近からは井戸跡も発見されています。

【ニの丸東側】
三の丸を除くと城内最大の曲輪であり、本丸をL字形に囲む形をなしています。本丸、松の丸とともに直線的な造りであり、本丸との間の空堀には石垣が築かれ、虎口には、織豊時代の築城様式である枡形とするなど九戸城の中でも近世要素の強くみられる部分です。特に石垣は九戸城落城後に蒲生氏郷が行った城普請の際に築かれた可能性が指摘されています。

【ニの丸南側】 【本丸虎口右側の堀】
【本丸虎口左側の堀】 【本丸虎口左側の堀】 【本丸・二の丸西側の断崖】
この右上部が本丸隅櫓跡。

【本丸隅櫓跡】 【本丸虎口跡】
本丸と二の丸を結ぶ虎口はここと追手門の二ヶ所がありますが、こちらは古図や伝承に名称がなく、無名の虎口です。
追手門同様に枡形になっていますが、こちらは堀が途切れる場所にあり木橋は無く、二の丸と直接出入りできる形になっており、門等の堅固な構造物があったと思われます。

【本丸井戸跡】
【本丸跡】 【本丸跡全景】
ほぼ100m四方の曲輪。

【本丸隅櫓跡上から本丸虎口と空掘とニの丸】
【本丸北側の断崖】 【本丸内土塁】
本丸の南側と東側の土塁は、腰巻石垣となっている。

【追手門虎口】
【本丸追手門跡】
ニの丸から本丸へ入る虎口の一つで、追手門跡と呼ばれます。南北双方から伸びる土塁がここでクランク状に屈曲しており、枡形となっています。この枡形は戦国時代末期(16世紀後半)に特色的に見られる虎口の形態で、敵の軍勢が一挙に攻め込みにくい形の防御施設です。
現在ニの丸と土橋で繋がっていますが、当時石垣の築かれていたこの空掘には土橋は無く、木橋が架かっていたと思われます。

【本丸東側空堀】 【二の丸と本丸に架かる橋】
【九戸城戦没者供養塔】 【二の丸搦手門跡】
ニの丸から戸館(石澤館)、若狭館、三の丸方面への虎口です。

【外館(石澤館)跡】
若狭館とともに曲線的な造りの曲輪です。本丸、二の丸、松の丸が直線的で枡形や石垣を伴うなど近世的な特色が強く見られるのに対して、中世の城郭のたたずまいをよく残しており、青森県根城跡や浪岡城跡を構成する曲輪によく似ています。

【二の丸搦手口】
石澤館より搦手を望む、右側へ進めば白鳥川の断崖と三の丸方面へ、左側へ進めば若狭館方面へ。

【若狭館跡】
石澤館とともに九戸城の曲輪の中では古い時期のものと考えられます。

【白鳥川断崖】
九戸城北側の断崖。
【三の丸から見た九戸城】
ここは国指定史跡エリア。
【三の丸から見た九戸城】
ここは国指定史跡エリア。
【三の丸跡】
三の丸は城の西側地区でほとんどが住宅街になっているため、多くの部分が国指定史跡からは除外されている。
ここは国指定史跡除外エリア。

【岩谷観音堂】
すごい場所に建っています。

【岩谷観音堂】
城の北西隅、白鳥川と馬淵川の合流点を臨む断崖にあります。九戸戦の戦没者を弔った「千補陀堂」の建立碑があります。近世の街道筋にもあたり、追分石も残っています。
弔っていた殆どのものが川の増水により八戸方面へ流されてしまい返されていないそうです。

【九戸城全景】
県合同庁舎展望室より、ボランティアの方に進められてきてみたのですが、場所が説明写真を見ないとわかりませんでした。
探訪〜2023年5月2日(火)〜
【三の丸跡から見た本丸跡】
九戸城ガイドハウスが建っている箇所が三の丸跡になりそこから見た本丸跡になります。
【三の丸の土塁】 【立入禁止ゲート】
この先に進めば二の丸搦手方向に行けますが、発掘調査が行なわれているため立入が出来ない状況でした。
【パンフレット入れ】
ガイドハウスが出来たのでこの中にパンフレットがあるかは確認しませんでした。前回はここからパンフレットを取ってまわっていたのですが。
【ニの丸と松の丸・在府小路の間の堀跡】
それぞれの曲輪との高低差が10m程あると思われます。
【二の丸の崖】
【ニの丸と松の丸・在府小路の間の堀跡】 【ニの丸と松の丸・在府小路の間の堀跡】
【九戸城址碑】
【大手門跡】 【二の丸跡】 【本丸堀】
左手が本丸大手、右側が本丸搦手になります。
【二の丸跡・東側】 【二の丸跡・西側】 【本丸西側堀】
本丸側、二ノ丸側とも石垣が見られます。
【本丸西側堀】 【本丸櫓跡】 【本丸大手側枡形虎口】
【枡形虎口内石垣】 【本丸大手側枡形虎口】 【本丸井戸跡】
【本丸西側土塁】 【本丸西側堀】 【本丸櫓跡】
【本丸北側土塁から見た三の丸跡】
眼下に九戸城ガイドハウスが確認できます。
【本丸跡】
前回来たときとだいぶ様子が変わっていました。
【本丸跡】
上下二段に分かれていたようですね。
【本丸跡】 【本丸建屋跡】
平面復元ですが、柱の数が普通より多いような感じがします。
【本丸跡】
【本丸の仕切門跡?】
門があったようですが、まだ説明板がなく詳細は不明ですが、本丸(館部分)を仕切る門があったのでしょう。
【休憩所?】
半分は倉庫の様です。
【本丸搦手枡形虎口】
【本丸北東側堀】 【本丸南東側堀】 【本丸木橋跡と石垣】
【二の丸搦手門跡】
ここから先は発掘調査中で立入禁止のロープが張られていました。
【外館(石澤館)跡】
左の小高い部分が石澤館跡になります。
【二の丸跡東側部分】




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