城名 根城
住所 〒039-1166
青森県八戸市根城字根城47
入場時間 午前9時〜午後5時(入場は午後4時半まで)
休場日
月曜日(第一月曜日は開場、その日が祝日・振り替え休日の翌日(土日、祝日の場合は開場)
年末年始(12月27日〜1月4日)
入場料 一般:400円、高・大学生:150円、小・中学生:50円
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし
築城主 南部師行
築城年 建武元年(1334)
主な改修者
主な城主 南部氏
位置 北緯40度30分22.83秒
東経141度27分34.6秒
地図 本丸
中館
東善寺館
岡前館
主殿
100名城
スタンプ
【沿革】
元弘3年(1333)北畠顕家が陸奥国司として後醍醐天皇の皇子義良親王を奉じて奥州に下向した際、甲斐源氏の流れを汲む南部光行(南部氏の祖)から四代目にあたる南部師行は国司代に任じられて同行。南部師行は翌建武元年(1334)糠部郡の八森(八戸)の地に築城。奥州における南朝方の拠点となる城であることから「根城」と命名したという。
糠部郡を中心に北奥州5郡を支配した南部師行の勢力は大いに高まり、津軽地方の領地争いの裁定なども断行。この南部師行も延元3年(1338)北畠顕家とともに足利尊氏追討の遠征軍に参加し、和泉(大阪)で戦死した。
南部師行の後を継いだ南部氏五代政長は室町幕府を開いた足利尊氏から度々降伏勧告を受けるが、これを退け、興国2年(1341)足利方の曽我師助を相模(神奈川)から追放した功により、後村上天皇から太刀や鎧などを拝領。また、南部氏七代信光は正平22年(1367)甲斐の本領で北朝方の神大和守を撃退した功により、同じく後村上天皇から鎧を拝領するなど南朝方に忠節を尽くしたが、南朝方の勢力が弱まるにつれて南部氏の勢いも次第に衰えていった。
明徳3年(1392)三代将軍足利義満によって南北朝が統一。翌明徳4年(1393)南部氏八代政光は本領である甲斐から根城に移って根城南部氏の再興を図るが、その後も戦乱が絶えず不安定な時代が続く。
天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐の際、津軽為信に遅れをとったものの、南部氏宗家の三戸城主南部信直が天下人の秀吉から南部七郡の所領を安堵されると、根城南部氏もその配下となった。
三戸南部氏は新たに盛岡城を築いて居城とするが、南部信直の嫡男南部利直によって寛永4年(1627)根城南部氏二十二代直義は遠野に国替えとなり、根城は廃城となる。

【感想】
中世の城を史実に基づいて復元しているの、中世の頃の営みが感じられる城、南部氏が大きく二つに分かれていることも初めて知って勉強になりました。
ガイドさんも親切で楽しかったです。
スタンプ
設置場所
史跡根城広場料金所、八戸博物館受付
根城史跡ボランティアガイドハウス窓口
登城日 2009年5月3日(日)
LINK 八戸博物館HP
根城-Wikipedia
城主家紋 【向鶴】
根城・遠野南部家家紋
【向鶴】
三戸・盛岡・八戸南部家家紋

                      

 
探訪
【根城説明図】 【南部師行公銅像】 【史跡根城広場入口】
中央に見えるのがボランティアガイドハウス。
【旧八戸城東門】
この門は八戸城の東門で安政6年(1857)の大風のため倒れ、家臣の木幡氏の門として建て替えられました。伝承によればもともと根城にあった門を八戸城に移したといわれています。

【堀跡】
堀は、地面を深く掘り込み、敵の侵入を防ぐためにつくられたものです。この堀は、本丸や中館の堀と並ぶ大きなV字形の空堀で、三番堀とともに城の東側を守る重要な施設です。また現在博物館のある東構地区から、発掘調査で屋敷跡が見つかっていますので、この地区も根城の城内に含まれると考えられます。

【薬草園】
根城南部家が遠野へ入封された後の様子を伝える「遠野古事記」には、城の中に薬草になる植物が植えられていた記録が残されています。
ここには、この地方に自生する植物を含め、古くから伝わる代表的な薬草を植えています。

【堀跡】 【堀跡】
この堀は、V字形の空掘ですが、現在でも1mほど掘ると水が湧くことから、堀底を水が流れていたことも考えられます。堀の規模は、本丸や東善寺館と並び、根城の中では大きい方です。また、城の中央を東西に横切る国道も堀跡であったと推定されており、その堀を境にして、郭の区画が北側は三角形等、南側は短冊型になっています。

【四阿(あずまや)】
中館にあり、現在は休憩所になっている。
【本丸模型】 【木橋】
敵が迫ってきたときは、本丸に渡れないように橋を落としました。本来は手すりはありません。(手すりは安全のために取り付けています。)
【堀跡】
【北門】 【東門】
【本丸跡説明板】
【南部氏家紋】
本家と分家で形が異なり、鶴の口が”阿吽”の形になっている。

【納屋】
これらの建物は、地面を30cm程堀くぼめて土間にしています。出入口が小さく窓がないので、内部は薄暗くなっていますが中には、米・味噌・梅漬けなどが入れられたと考えられます。
納谷は、工房や鍛冶工房と異なりすべて本丸の端に寄せて建てられていました。

【納屋入口】
【本丸・主殿】
この建物は、当主が特別な来客と会ったり、さまざまな儀式を行ったところです。儀式で使う道具や、南部家に伝わる重宝もここに納められ、大切に管理されていました。

【主殿構造】
建物の中は、大きな部屋が規則正しく並んでいて、土間の台所のほかは板敷きになっています。畳は、特別な会見や儀式の時にだけ出して使われていたようです。

【詰之間】
【茶之間】 【控之間】 【広間】
【祈祷之間】 【上馬屋】
この建物は、当主が所有している馬を繋いでいたところです。南部駒も復元されています。

【本丸井戸跡】
本丸内に4つあります。

【中馬屋】
来客の馬を繋いでいたところです。

【下馬屋跡】
この建物跡は、おもに夜間や冬の間、馬を飼っていたところです。馬屋と倉庫を兼ねていて、鞍や鐙などの馬具のほかに、馬の餌となる飼い葉もたくさん蓄えられていました。馬の世話や見張りをするために、番人が交替で詰めていました。

【物見】
この建物跡は、遠くを見るための櫓があったところです。敵の気配や荷物をつんで馬淵川を行き来する船の様子を高い所から見張っていました。

【一葉一字供養塔】
享保三年(1718)、八戸藩士の接待宗碩は、藩の繁栄と先祖や根城の戦没将兵を供養するため、法華経を一枚の葉(板)に一字ずつ書き写し、ここに埋めたといわれています。

【番所】
この建物は、西門を通る人を監視するための番人が詰めていたところです。

【祭壇跡?】
土まんじゅうのように高く盛り上がっているところは、神様が祭られた神聖な場所と考えられています。

【西門】 【西門外側】 【西門外側】
【工房】
この穴は竪穴式で、地面を長方形に堀くぼめて床としています。このような竪穴建物は東北地方北部から北海道南部の城や館の中でよくみられます。

【工房内部】
建物の中では、職人たちが合戦や儀式に備え、鎧や弓などの修理をしていました。

【常御殿】
この建物跡は、当主が寝起きし、領内を治めるための仕事をした場所です。
重臣たちと協議したり、来客と接見するための広間や寝所、従臣の詰所などがあったと考えられます。

【野鍛冶場】
ここは屋外の鍛冶場で、こわれた鉄鍋や銅銭などを溶かす作業をしたところです。

【炉と鞴】 【鍛冶工房】
この建物は竪穴式で、地面から90cm下にある鍛冶場では職人が鎧や刀の部品のほかに釘などを作っていました。

【鍛冶工房内】
【奥御殿跡】
この建物は、当主の家族が住んでいた所で、先祖の霊も祭られていました。当主は先祖の拝礼や家族の様子をうかがうために、常御殿から通ってきました。

【板蔵】
この建物は、当主やその家族が奥御殿で使う道具や衣類を入れていたところです。品物を守るために厚さ6cmの厚板を使って丈夫に作られています。

【板蔵内部】 【板蔵内部】 【本丸木橋】
【中館の土塁】 【護摩堂跡】 【東善寺館跡】
寺は移築されたが今でもお墓が残る。

【三番掘跡】 【三番堀跡】
ジャンル:そば・うどん
店名:はやて
住所:八戸駅構内
定休日:無休

列車の待ち時間に寄ってみました。
大好きなメカブと海藻が入ったそばです。
メカブのとろとろ感がそばのつるつると合いますね。
小腹が減った時に丁度良いですね。




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