城名 弘前城(別名:鷹岡城、高岡城)
住所 〒036-8356
青森県弘前市下白銀町1
入場時間 4月1日〜11月23日
午前9時〜午後5時
ただし、さくらまつり期間は
午前7時から午後9時まで
冬季は天守閉鎖
入場料 本丸・北の郭
大人:320円、子供:100円
植物園
大人:320円、子供:100円
指定文化財 国指定史跡、重要文化財9件(天守・辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓・追手門・東門・南内門・東内門・亀甲門)
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 不詳5層(非現存・1610年築)
御三階櫓(複合式層塔型3層3階・1810年改)
独立式層塔型3層3階(現存)
築城主 津軽信枚
築城年 慶長16年(1611)
主な改修者 津軽寧親
主な城主 津軽氏
位置 北緯40度36分28.93秒
東経140度27分49.7秒
100名城
スタンプ
スタンプ
設置場所
天守受付(4/11〜11/23)
弘前公園緑の相談所内(11/24〜3/31)
登城日 一回目:2009年5月4日(月)
二回目:2023年5月1日(月)
LINK 弘前公園HP
弘前観光コンベンション協会HP〜弘前城
弘前城-Wikipedia
城主家紋 【卍】
(藤原氏後裔?)
津軽家家紋
【沿革】
弘前城は、はじめ鷹岡城と呼ばれていた。鷹岡に城を築くことにしたのは、津軽氏(はじめ大浦姓)初代の為信である。
天正年間(1573〜92)に津軽平野を平定を果たした為信は、それまでの居城であった大浦城、堀越城の二城が狭小なことから、慶長8年(1603)になって幕府の許可を得て、鷹岡を築地として選び、慶長9年から築城工事にかかった。
慶長12年為信が京都で亡くなると家督を継いだ三男で二代藩主となった信枚が工事を続行し、慶長16年(1611)にほぼ完成し、五月にこの新しい城に入ったと伝えられる。
その後、明治4年(1871)の廃藩置県まに至るまでの260年間、津軽氏代々の居城でした。
弘前城は、弘前公園として明治28年(1895)に市民に開放されて以来、桜の名所として全国にその名を知られている。

【感想】
重要文化財の建物が9棟もあり昔の面影を多く残していて見ごたえは十分です。
そして桜の名所でもあるためGWの桜祭り期間中はすごい人手で見るのに疲れてしまいました。

                      


※弘前城案内図
【文化センター前の津軽為信公像】
弘前城東門近く。
【弘前城東側土塁と堀】 【東門】(重要文化財)
【三の丸】 【ニの丸堀】 【石橋】
【東内門】(重要文化財) 【下乗橋】 【天守】(重要文化財)
【下乗橋】 【天守】(重要文化財) 【亀石】
【本丸南虎口】 【天守】(重要文化財)
内側と外側では形状が異なる。外側は防御のための石落しが付いており切妻破風が重なっているが内側は破風がない。

【石落しと弓挟間】
【弓挟間】
【天守からの岩木山を望む】
岩木山が綺麗に映える。
【弘前城本丸模型】
【天守より下乗橋を望む】 【本丸御殿御玄関礎石】
この礎石に玄関の柱が建てられていた。御殿は日常の事務を行う表と、藩主の日常生活の場の大奥に大別される。また、本丸には能舞台や御武芸所など敷地の七割ほどに各種の建造物があった。

【本丸御殿からの天守】
【本丸の枝垂れ桜】 【枝垂れ桜と岩木山】 【本丸戌亥櫓跡】
【御宝蔵跡】 【本丸の枝垂れ桜】 【本丸の枝垂れ桜】
【鷹丘橋】
本丸北側虎口。
【本丸堀】 【北の郭】
【武徳殿】
現在は休憩所。
【籾蔵跡】
ここには、4代藩主信政の聖母である久祥院の館がありましたが、宝永元年(1704)以降は宝蔵や籾蔵が建てられ、廃藩の頃には籾蔵が立ち並んでいました。

【子の櫓跡】
北の郭北東隅の土塁上には、藩政時代を通して三層の櫓がありました。櫓の中には、武具の他に藩庁日記なども保管されていました。子の櫓は廃藩以降もその姿を留めていましたが、明治39年(1906)に花火のため焼失してしまいました。

【北の郭全景】 【館神跡】
館神は、2代藩主信枚が太閤秀吉の木像を御神体として安置した場所でした。ここでは、藩主や城内の安全などにかかわる加持祈祷がとり行われており、ここへ出入りできたのは、藩主や神官やその家族などごく限られた人でした。

【館神跡からの天守】
【本丸石垣】 【波祢(はね)橋】 【四の丸】
桜祭り期間中なのでたくさんの出店が出ています。

【春陽橋】 【西濠】 【一陽橋】
【四の丸堀】 【四の丸】 【四の丸】
【亀甲門(北門)】(重要文化財) 【亀甲橋】 【四の丸】
いまはレクレーション広場になっている。
【賀田(よした)橋】 【賀田(よした)門跡】
築城当初は北門が城の表玄関で、ここにあった賀田門は、、三の丸の北門として旧賀田城(岩木町大浦城)の大手門を移築したと伝えられる。門の内外は直進できないように折れ曲がった枡形が造られていて、堅固な備えを見せている。

【二の丸丑寅櫓】(重要文化財)
城郭に取りつく敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、銅板葺(当初はとち葺)となっている。
【二の丸東門与力番所】(復元) 【玉鹿石】(青森県天然記念物) 【時太鼓櫓跡】
城内で時間を知らせるために太鼓を打ち出していた場所で、貞享3年(1686)に始められた。時太鼓は、まず数十回捨て打ちして明け六つ(午前6時の前後2時間)を打ち、他の時刻は三回捨て打ちから打つという。

【南内門】(重要文化財) 【西の郭】 【埋門跡】
埋門とは、石垣などの間に築かれる裏門の一形式で延宝4年(1676)の規定によると普段は扉を閉めていた。馬屋町一帯は外曲輪であったが天和2年(1682)に川筋の整備に伴って、外郭の扱いとなった。現在の石垣は、紀年銘から天保年間に整備されたことが知られる。

【西の郭南側堀】 【西の郭未申櫓跡】
西の郭には、西側の土塁に沿って御馬場や御矢場が作られたほか、各地の珍しい植物を植えた「御花畑」などがあった。この櫓は、宝暦6年(1756)の絵図によれば三層建てであったことがわかるが、明治39年(1906)に煙草の火の不始末で焼失してしまった。

【西の郭西側堀】
【西の郭の土塁上】 【蓮池】 【南内門】(重要文化財)
【杉の大橋】 【二の丸南側堀】 【二の丸未申櫓】(重要文化財)
【三の丸内弘前城植物園】 【ニの丸辰巳櫓】(重要文化財)
弘前城植物園内より。
【三の丸庭園】
【三の丸庭園】 【三の丸庭園】 【三の丸追手門】
【三の丸追手門、土塁、堀】 【市立観光館内の津軽為信公像】 【市立観光館内の津軽為信公ねぶた】
探訪〜2023年5月1日(月)〜
【外濠】 【城址碑と三の丸追手門】 【三の丸追手門】
【ニの丸辰巳櫓と中濠】(重要文化財) 【杉の大橋】 【二の丸未申櫓と中濠】(重要文化財)
【南内門】(重要文化財) 【二の丸未申櫓(内側から)】 【二の丸辰巳櫓(内側から)】
【二の丸土塁】 【内濠】 【下乗橋】
天守が移動されているので奥の方に小さく見える。
天守石垣修復現場】 【武者屯御門跡】 【本丸枡形から見た天守】
この位置の天守を見られるのは今だけかもしれない。
【天守石垣修復現場】 【移動された天守】 【移動された天守】
【天守内より見た天守石垣修復現場】 【本丸西側眺望】
手前から蓮池、桜のトンネル、西濠に岩木山
【本丸西側の鉢巻石垣】
【三の丸追手門、土塁、堀】 【本丸未申櫓跡】 【本丸戌亥櫓跡】
【本丸北側虎口の石垣】 【北の郭】 【子の櫓跡見学台】
【子の櫓跡】 【館神跡】 【館神跡から見た天守石垣修復現場】
【二の丸丑寅櫓】 【二の丸丑寅櫓と中濠】 【四の丸北門】
【外濠】 【四の丸・レクリェーション広場に置かれた天守石材】 【三の丸東門】




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