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※赤線は大体の位置を示しています。
城名 赤館城
住所 〒963-6131
福島県東白川郡棚倉町大字棚倉
入場時間
入場料
指定文化財 史跡
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 赤館伊賀次郎
築城年 建武年中(1334〜1338年)
主な改修者 立花氏
主な城主 赤館氏(白川結城氏)、佐竹氏、立花氏、丹羽氏
位置 北緯37度2分25秒
東経140度22分36秒
地図 主郭
櫓跡
主郭虎口
腰曲輪
城址碑
【概要】
赤館の南面に降る雨は久慈川となって関東を潤し、北面は阿武隈川となって奥州を潤す。標高わずか345mのこの丘陵は関東東北の分水嶺であり文化の交差点であり、軍事的要衝だった。
鎌倉初期、この赤楯(館)は伊達氏が得た飛び地であったが、南北朝初期から室町時代を通しては、在地領主である赤館氏が支配した。赤館氏は白川結城氏の影響下にあったらしく、比較的小規模の領主であった。
応仁の乱の時、白川結城氏は京以上の文化を花咲かせた。永正10年(1510)戦国大名の佐竹氏は白川結城氏の依上保(大子を含着た茨城県)を支配した。やがて佐竹氏は東館・羽黒館(塙)・流館(近津)等と赤館以南の九南郷館を支配した。
元亀2年(1571)白川義親は南郷の領土奪回にでて南郷一帯で激戦となった。これを好機と小田原の北条氏が佐竹家臣の下妻城を攻めたので、佐竹は赤館を放棄する和睦を結び、南転して行った。この年は信長が延暦寺を焼内した年であったが、棚倉が戦火に蹂躙された年でもあり、以後毎年のごとく棚倉は戦禍をを被った。
天正18年(1590)正月、伊達政宗は「七草を一葉によせて摘む根芹」と謳歌した。七草とは白河が入る七郡で、伊達氏は分国を挟むことなくこの赤館で佐竹氏と対峙した。今も南麓の川はこの時城攻めに掘ったものと伝えられている。しかし、同年の秀吉の「奥州仕置」で白川結城氏は消滅し、棚倉は佐竹領地と公認された。
徳川の天下になると、佐竹氏は秋田に追われ棚倉は天領となった。慶長14年(1609)立花宗茂が5万石赤館城主となった。翌年城の東に遷宮した宇賀(迦)神社、今も棚倉町の氏神と栄えている。
元和8年(1622)丹羽長重が5万石赤館城主となった。赤館は戦国の館に過ぎないので、5万石に相応しい家臣団を擁する城郭でなかった。かつて越前等123万石を支配した長重は、二年後から現在の棚倉町城跡の地に棚倉城を築城し始めた。以後の赤館は廃城となった。


【感想】
好きな武将の一人立花宗茂が封ぜられたこの城に思いも馳せるのだが、今は赤館公園となり公園化が進み遺構は殆どない。南斜面に平場がいくつか点在するが斜面には廃屋などが建ち、腰曲輪のみがわかるくらいである。主郭の西側には一段高くなった場所があり、それが櫓台跡らしい。あるのはそのくらいであるが歴史的観点から見るとかなり重要な場所であることが分かる。
登城日 2010年1月10日(日)
LINK 福島県棚倉町の観光情報
城主家紋 【竹雀三端頭】
(藤原氏秀郷流)
白川結城家家紋
【祇園守】
(藤原氏秀郷流大友氏族)
立花家家紋

                      

探訪

城内案内図
【赤館城全景】 【主郭】
麓から一気に主郭までこれる。そのため遺構は殆どない。
【主郭からの眺望】
棚倉町全体を眺めることができ、棚倉城址も確認できる。
【南側斜面に残る平場】 【腰曲輪】
【主郭土塁?】
多分これは後世のものだろうが、往時もこのように主郭を囲んでいたことであろう。
【赤館城址碑】 【主郭西側にある櫓跡】 【櫓跡に建つ神武天皇遥拝所碑】
【南側腰曲輪】 【東側腰曲輪】
観光〜宇迦神社〜
【宇迦神社】 【鳥居と山門】 【参道の石段】
山門をくぐると急峻な石段がある。

【参道】
石段を登ると平地になるが本殿はない。
【参道の石段】
さらに石段がある。
【鳥居と拝殿】
石段を登りつめると拝殿が見えてくる。
【棚倉城主寄進の灯篭】
奥から棚倉藩4代城主内藤豊前守弌信公寄進、棚倉藩8代城主小笠原佐渡守長堯公寄進、棚倉藩9代城主小笠原主殿守長昌公寄進、棚倉藩12代城主松平周防守康爵公寄進。
【水天宮】




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