城名 白石城(別名:益岡城、枡岡城)
住所 〒989-0251
宮城県白石市益岡町1-16
入場時間 白石城・武家屋敷・ミュージアム
4月~10月 9:00~17:00
11月~3月 9:00~16:00
休館日:12月28日~12月31日
入場料 大櫓    :大人400円、小人200円
武家屋敷  :大人200円、小人100円
立体ビジョン:大人400円、小人200円
共通券   :大人800円、小人400円
指定文化財 市指定史跡
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 大櫓(三重櫓)複合式層塔型3重3層・1819再(木造復元・1995年)
築城主 白石氏
築城年 鎌倉時代
主な改修者 蒲生郷成
主な城主 白石氏、蒲生氏、上杉氏、片倉氏
位置 北緯38度0分9.32秒
東経140度37分1.66秒
100名城
スタンプ
スタンプ
設置場所
白石城天守閣(大櫓内)
※天守ではないのに天守閣とはこれいかに?
【沿革】
天正19年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、会津若松城とともに蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は、白石城を築城し城主となった。慶長3年(1598)上杉領となるや上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣片倉小十郎によって大改修がなされ、以後明治維新まで260余年間片倉氏の居城となった。

白石城は標高76mの最頂部には本丸・二ノ丸・中ノ丸・西曲輪、中段には沼ノ丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で丘陵を切断、館堀川を隔てた平地には三ノ丸・外曲輪を配置した平山城である。本丸は高さ9m余の石垣の上に土塁を囲み大櫓・辰巳櫓・未申櫓・大手門・裏御門を備え、御成御殿・表・奥の諸建物があった。二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用する等中世と近世城郭を併用した縄張であった。

元和の一国一城令以後も仙台藩は仙台城と白石城の二城が許され、明治維新後には奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された。その後按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の変転期には一役を担う重要な城であった。


【感想】
白石城は、蒲生氏の時代に北の守りとして改修された関係で伊達家の所領になっても北側が重厚な造りになっているままだったところが面白い。
ただ、現在の城郭は単体でみると物足りなさがありますが、片倉家に関する場所を一緒に観光すると満足できると思います。
登城日 一回目:2010年1月11日(月)
二回目:2023年5月3日(水)
LINK 白石城・歴史探訪ミュージアム・武家屋敷
しろいし観光ナビ~白石城本丸~
白石城-Wikipedia
城主家紋  【九曜】
(藤原氏族刈田氏後裔)
白石家家紋
【対い鶴】
(藤原氏秀郷流)
蒲生家家紋
【竹に二羽飛び雀
(藤原氏勧修寺流)
上杉家家紋
【九曜】
(藤原利仁流加藤氏裔)
片倉家家紋


白石城   白石市観光    グルメ

探訪
【堀跡】
白石城の周囲を流れるこの水路が堀であった。
【東口門跡】
東口門は当信寺に移築現存している。
【本丸石垣】
【井戸屋形(復原)】 【大手一ノ御門(復原)】 【大櫓(天守代用・復原)】
【大手二ノ御門】
本丸への入口です。
【大手御門内から見る大櫓】 【大櫓と大手二ノ御門】
【本丸御殿跡】 【本丸御殿模型写真】 【大櫓と鐘堂】
【片倉景綱公頌徳碑】 【大櫓】
【城碑と大櫓】
【辰巳櫓跡】 【裏御門跡】 【本丸土塁】
【本丸土塁上】 【未申櫓跡】
残念ながら表示があるのですが根元が朽ち果てて転がってます。
【大櫓】
【本丸井戸】 【鐘堂】 【大櫓一階】
【大櫓二階】 【大櫓最上階】 【大櫓より見た大手一ノ御門・二ノ御門】
【大櫓より見た蔵王連峰】 【大櫓より白石市市内】 【付櫓】
【大櫓入口の石段】 【大櫓】
馬場跡より。
【本丸切岸】
大櫓近辺は石垣だが未申櫓の方は石垣がない。
【馬場跡】 【二ノ丸跡】 【第18代横綱 大砲萬右衛門等寸像と大櫓】
【厩口門跡】
延命寺に移築され現存している。
【白石城本丸模型】 【白石城模型】


  
【延命寺山門】
この門が移築された白石城の厩口門です。
【当信寺山門】
この門が移築された東口門です。
【阿梅と大八の墓】
大阪夏の陣の際に真田幸村から片倉重長公に託された遺児達の墓。阿梅は、先妻が病没した後に重長の後妻になりました。
【片倉家御廟】
石畳を敷いた床面の上に、10体の大きな石像と1個の墓碑が、花崗岩の玉垣の中に整然と並んでいます。
 片倉小十郎3代景長は、片倉家代々の城主の墓所を白石城の西方、愛宕山山麓に定め、初代景綱と2代重長の墓を、延宝8年(1680)に傑山寺から改葬し、阿弥陀如来座像を墓標としました。以後、9代まで石像を城主の墓標としましたが、10代宗景(明治4年)は、角柱の墓碑としています。
【片倉家御廟全景】 【片倉景綱公御廟】
【殉死者の墓】
廟所の傍らには、初代景綱に殉死した6名の家中武士の墓碑が建立されています。
←クリックしてみてね
【傑山寺本堂】
常英山傑山寺は、慶長13年(1608年)に初代片倉小十郎景綱公が臨済宗妙心寺派大本山妙心寺の第十一世天心智寛大和尚を開山として建立された寺院で、本尊は拈華釈迦如来立像です。片倉家の菩提寺として初代景綱公始め代々の城主とその奥方、家族が弔われています。
【片倉景綱公の墓】
景綱の遺骸は、傑山寺に埋葬され、敵にあばかれないように、あえて墓石を造らず一本の杉を墓標にしたといわれている。戒名は「傑山常英大禅定門」後に「傑山寺殿俊翁常英大居士」と諡された。
【片倉景綱の墓標の一本杉】
【佐藤孝郷の墓】
戊辰戦争後、旧片倉家中の者たちは家屋敷を失い、この白石で刀を捨て農民になるか、士族として北海道へ入植するかの岐路に立たされます。
このとき弱冠19歳の青年家老佐藤孝郷の決意は片倉家中の心を動かし、士族として生きることを決意させました。そして咸臨丸にて苦渋の航海の末、ようやく北海道最月寒(現在の札幌市白石区)に104戸が入植、現在の札幌市白石区の礎を築きあげた。
【片倉家墓所】 【松前家の墓】
傑山寺にある片倉家の廟所東隣りの奥まった高台に、全国でも例を見ない将棋型をした墓が整然と立ち並んでいる。これが北海道松前城主慶広の五男安広とその子、広国の墓である。広国は伊達騒動で抜群の働きをなし、伊達六十二万石を救った、歌舞伎でも名高い松前鉄之助である。

ジャンル:郷土料理
店名:元祖白石うーめん処 なかじま
住所:〒989-0243
  宮城県白石市沢目8−23
TEL:0224-25-6670
営業時間:曜日によって異なる
定休日:水曜日

写真は”もりうーめん(大)”と”山菜の天ぷら(大)”

白石の郷土料理といえばうーめんでしょう。
JR白石駅前にあり、活気のあるお店です。
店員さんの丁寧な接客と美味しい温麺です。




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