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城名 | 小高城(別名:紅梅山浮船城) | ||
住所 | 〒979-2102 福島県南相馬市小高区小高 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 県史跡 | |||
城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 行万氏? | |||
築城年 | 12世紀頃? | |||
主な改修者 | 相馬光胤 |
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主な城主 | 相馬氏 | |||
位置 | 北緯37度34分5秒 東経140度59分24秒 |
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地図 | 1 | 主郭 | ||
2 | 搦手虎口 | |||
3 | 大手口 | |||
4 | 三郭(馬場) | |||
5 | 堀切 | |||
【概要】 小高城は、小高川の氾濫原に舌状にのびた台地の上にあり、その台地の頭部を切り空濠とし、四周を削り、濠及び池をめぐらし、頂には土塁を築いている。 元亨3年(1323)4月、相馬重胤が下総国(今の千葉県)流山から移るにあたって、はじめ太田(現原町市)の別所館に住み、嘉暦元年(1326)この城に移った。建武3年(1336)に次子光胤に命じて修築させ、以後相馬氏の本拠として、南北朝の乱には北党の重要な位置を占めた。小高城攻防戦は相馬文書のほか、岡田・大非山・飯野文書などによって明らかである。 慶長2年(1597)に相馬義胤が原町市の牛越城に移り、当城を支城としたが、同7年再びもどり、同16年(1611)に相馬利胤が相馬の中村城に移って廃城となった。重胤公よりここに至るまで十一代二百八十余年間六万石の城として続いた。 城内の相馬小高神社は相馬氏代々の守護神である妙見を祀った社で、相馬三妙見のひとつに数えられ、「相馬野馬追」の野馬懸はここで行われる。なお、小高城は別名紅梅山浮舟城とも称されおり、福島県の中世城郭として注目すべきものである。 【感想】 遺構はほとんど残っていないが、相馬氏の歴史を知る上では外せない場所である。本丸は開けて入るがそれ以外は広くなく小規模である、防御的にも堅固な城とは言えない。そのため軍事用の城というより在地支配の拠点とする意味合いが大きかったと思われる。 |
登城日 | 2010年7月17日(土) | ||
LINK | 小高城-Wikipedia | |||
城主家紋 | 【九曜】 (桓武平氏良文流) 相馬家家紋 |
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【繋ぎ馬】 (桓武平氏良文流) 相馬家幕紋 ※幕紋は将門ゆかりの「繋ぎ馬」 |
【妙見橋】 小高城の天然の堀の役目を果たす小高川に架かる橋。 |
【小高神社一の鳥居】 | 【小高城址碑】 | |
【南の二郭】 | 【小高城説明板】 この他にあと一枚あり。 |
【主郭】 ここに館があったと思われる。 |
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【主郭】 本丸はかなり広い。 |
【主郭西側の虎口?】 「福島県の中世城館址」の収容図には、ここに虎口は示されていない。 |
【西側虎口?】 | |
【西側より見た小高城】 この辺りから左側方向には濠があった。(濠跡) |
【搦手虎口】 主郭の北側にあり、若干ではあるが道が折れるので枡形虎口のように感じられた。道が狭くなているので分かりづらい。こちらは搦手口になると思われる。 |
【搦手口の登城道】 | |
【搦手虎口】 この辺りは濠跡になる。 |
【主郭北側の土塁】 小高神社本殿裏。 |
【三郭(馬場)】 現在は田圃になっている。 |
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【小高神社】 元は妙見社で千葉氏の守護神を祀ったもの。(相馬氏は千葉氏の流れである、そのため九曜紋を使用している) |
【二郭】 | 【北の二郭と三郭(馬場)】 手前の田圃部分が三郭(馬場)、その奥の高い部分が北の二郭である。 |
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【大手口・大手道】 |
【弁天池】 天然の水濠、草が生い茂っているが水はある。 |
【堀切】 舌状台地をここで切っている左側は北の二郭になる。 |