城名 相馬中村城(別名:馬陵城)
住所 〒976-0042
福島県相馬市中村
入場時間
入場料
指定文化財 県史跡
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 三重の天守(非現存)
築城主 坂上田村麻呂?
築城年 延暦年間(800年頃)
主な改修者 中村朝高、相馬盛胤
主な城主 中村氏、相馬氏
位置 北緯37度47分52秒
東経140度54分56秒
地図 大手一ノ門
妙見曲輪跡
天守跡
丸土張(馬出)
北外堀
【概要】
中村城が築かれた地は、相馬氏が居城を移す前からも城館として利用されていました。古くは、延暦20年(801)坂上田村麻呂の東夷征伐のとき利用したとされ、中世には、源頼朝が奥州平定の帰途、ここの館に宿営したと伝えられています。南北朝期以降もこの地に勢力を持つ者に利用され、城郭として形づくられてきました。

慶長16年の築城は、7月からはじまりその年の12月には小高城から移っています。約半年でほぼ完成したいうこの築城工事は、それまでの城郭を元に再整備・補強・拡張を行ったものといえます。

中村城は、古くは天神山と呼ばれた自然丘陵を利用して築城されました。城郭の規模は、東西600メートル・南北650メートル。本丸と鎮守妙見を祀った妙見曲輪を中心に、二ノ丸・三ノ丸・岡田館を配置し、その間に堀・空掘をめぐらし城郭としての機能を発揮できるようにしました。城の北方には、蓮池・外堀・土橋などがあることから、北方を意識した堅固な城といわれています。

慶長16年の築城では、本丸の西南隅に天守が建てられました。しかし、寛文10年(1670)5月4日夕刻、落雷のため焼失してしまいます。ときの藩主19代相馬忠胤は、 再建をすれば莫大な費用がかかり、藩士や領民を苦しめることになるため再建をしませんでした。その後の藩主もこれにならい、明治にいたるまで再建されることはありませんでした。

明治になり、中村城の建物は、新政府の藩政改革でほとんどが取り壊されました。現在では、外大手一ノ門が唯一残っており、往時の面影を偲ばせます。城郭を形成していた土塁、石垣、堀などは、築城当時の姿を残しており、昭和30年(1955)2月に福島県の史跡として指定されました。



【感想】
先に訪れた小高城に比べ規模は三倍以上広い城郭となっている。堀や石垣などの遺構が残り見ごたえある場所でした。訪れた時期が相馬野馬追いの一週間前ということも有り、城内で準備をしていました。
南二ノ丸で繰り広げられる野馬追いを見てみたいですね。
登城日 2010年7月17日(土)
LINK 相馬市公式HP-中村城
相馬中村城-Wikipedia
城主家紋 【九曜】
(桓武平氏良文流)
相馬家家紋
【繋ぎ馬】
(桓武平氏良文流)
相馬家幕紋
※幕紋は将門ゆかりの「繋ぎ馬」

                      

探訪

※案内板より、加筆あり
【北外堀】 【北外堀に咲く紫陽花】 【北外堀の蓮】
【東二ノ丸堀】
【東二ノ丸堀】
対岸が東二ノ丸(現野球場)、案内板ではこの辺りに不開門があったようです。対岸がちょっと虎口に見えますが、以前野球場に入るための橋が架かり出入りできたようですが遺構とは関係がないようです。
【東三ノ丸堀】
【東三ノ丸の土塁】 【大手一ノ門(外側)】
城址に現存する唯一の建物です。相馬義胤が、武蔵川越城(埼玉県)城番のときに、その城門の堅固なことに感心し、それを模して作らせたといわれています。慶安2年(1649)に建てられました。
【大手一ノ門(内側)】
門は高麗門の形式をとっています。
【大手門の石垣】
奥の石垣部分が大手二ノ門跡になる。
【城跡碑と南二ノ丸堀】 【大手門・枡形】
柵が置かれている部分が、大手二ノ門跡。
【東三ノ丸跡】
東三ノ丸は、通称御厩(おんまや)といわれました。もとは重臣泉氏の屋敷で、後に南二ノ丸から馬場(厩)が移され、御厩別当馬場氏が代々住んでいました。元禄11年(1698)に、西端に番所が設けられ、大手門を守る番士が昼夜詰めていました。
【中門跡】
外大手門と同じような構造の枡形があり、慶安元年に二つの門が建てられました。元禄期の絵図には一門だけが描かれています。文政9年(1826)には、その門も棄却されました。
【本丸南側堀】
【相馬中村神社】 【狛馬?】
【狛犬】
突き当たりは天満宮。
【相馬中村神社】
石段の両脇の手すりには馬があしらわれています。
【相馬中村神社(妙見曲輪跡)】
西二ノ丸の一角にあって、藩主相馬氏の氏神である「妙見」を祀ったところを特に妙見曲輪といいました。相馬氏の居城には、必ず設けられました。妙見社(現相馬中村神社・国指定重要文化財)は、寛永20年(1643)に建てられた相馬地方最古の神社建造物です。権現造りの社殿は全体的に質素な意匠ですが、木割りは太く力強く、屋根はこけら葺です。
【絵馬堂】
【妙見曲輪東側空堀】
対岸は西二ノ丸。
【妙見曲輪北側空堀】 【西二ノ丸の馬場】
相馬野馬追いのための馬場。
【西二ノ丸】
古くは西館と呼ばれ、相馬利胤が中村城に移る前に、盛胤が隠居したこともありました。利胤が本拠を移した頃は、家臣の屋敷でしたが、後に南の方は台所役所となり、北の方には米倉が造られ、宇多郷・北郷・中郷の貢税が収められました。火薬庫が置かれたこともありました。籾蔵門は、西二ノ丸の北側にあり、蓮池西土塁より続く一連の防御施設でした。
【本丸西側堀】
本丸と西二ノ丸の間の堀。
【本丸の鉢巻石垣】
西二ノ丸から見える本丸西面の石垣は、弘化4年(1847)に崩落し、積み直されたものです。
【搦手道】 【黒橋】 【本丸の鉢巻石垣】
自然丘陵を利用した本丸には、中段より上には鉢巻石垣があります。慶長16年(1611)、会津藩浪人幸田彦左衛門の指図で構築されたといわれています。石材は、川石の自然石に割り石を混ぜ、小面を横に据える野面積です。上下の石が奥でかみ合うため隙間ができ、明暗が生じて自然にとけこんでいます。
【本丸搦手門跡】 【本丸跡、相馬神社】
諸所に礎石や庭園の配石の跡を見ることができます。本丸跡にある相馬神社は、明治13年に相馬氏の祖、相馬師常を祭神にして創建されたものです。
【本丸西側土塁と虎口】
あとから土塁を切った可能性が高いがここから西二ノ丸に降りれる。
【本丸から見た西二ノ丸】 【本丸北側井戸跡】 【本丸北側堀】
本丸と北二ノ丸との間の堀。
【本丸御殿跡】
本丸御殿は、現在のふじ棚を囲むようにしてありました。
【天守跡】
三重の天守閣は、慶長16年(1611)に本丸の西南隅に建てられましたが、寛文10年(1670)落雷で焼失し、以後再建されることはありませんでした。いまは天守台のあともよくわからない。
【本丸一の門跡】
大手道からの入口の門になる。
【馬陵城跡碑】
本丸一の門の写真、右の方に黒いのがありますが、それがこれです。

【廊下橋跡】
本丸と馬出をつなぐ橋。
【廊下橋下の堀】
【廊下橋跡】 【二宮尊徳像】
天明7年(1787)〜安政3年(1856)
金次郎。相模(神奈川県小田原市)の人。
独特の思想により農村建て直しに尽力した農政家・思想家でその教えに基づく農村復興策は、「興国安民法」(二宮仕法・報徳仕法・御仕法)などと呼ばれました。二宮仕法は、文政6年(1823)の桜町(栃木県二宮町)仕法をはじめ各地で実施され、相馬中村藩でも導入して財政の再建に成功した。二宮仕法の考えは、明治以降の報徳社へとつながっていきました。
【丸土張】
馬出のこと。
【東二ノ丸跡】
古くは中館ともいわれ、ほぼ現在の二の丸球場にあたります。延宝2年(1674)から天明3年(1783)ころまでは、二ノ丸御殿があり藩主の私邸となっていました。
【廊下橋跡と堀】 【矢来門跡】
北二ノ丸と東二ノ丸の間に作られた枡形虎口形式の門。
【蓮池】
北二ノ丸北側の堀になる。

【外蓮池門跡】
北三ノ丸に作られた枡形虎口形式の門。




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