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※地図上の赤い線は大体です。
城名 神指城
住所 〒965-0086
福島県会津若松市神指町本丸
入場時間
入場料
指定文化財 市指定
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 未完
築城主 上杉景勝
築城年 慶長5年(1600)
主な改修者 上杉氏
主な城主
位置 北緯37度30分40秒
東経139度53分33秒
地図 高瀬の大木(二の丸北東角土塁跡)
天守建設予定地
本丸西口御門跡
如来堂(二ノ丸南西角土塁跡)
二ノ丸南東角土塁跡
【概要】
神指城は、慶長3年(1598)越後から会津へ120万石で移封された上杉景勝が、執政の直江兼続に命じて築かせた日本有数の規模をもつ平城です。
『会津旧事雑考』によると、当初は、会津盆地中央とする予定でしたが、平坦で川との落差のない神指ヶ原に定め、慶長5年(1600)3月18日から築城を開始しました。兼続の総指揮により、神指の十三ヶ村を強制的に移住させ、城は北東の鬼門に位置する「高瀬のケヤキ」と北極星を基点に縄張り(設計)しました。領内から十二万人を動員し、東山町慶山から石を運び本丸に石垣を築き、町割まで計画しました。しかし家康の上杉討伐令により、6月10日で工事は中止しました。本丸は石垣と堀や三方の門、二ノ丸には四方の土塁と堀が完成しましたが、天守閣には着工できませんでした。
免責は、若松城(鶴ヶ城)の2倍約55haもあり、毛利輝元の広島城に似た「回」字形をした城郭でした。中央の京・大阪、西の広島、東の会津というように、政治経済の中心拠点にしようと川や運河を利用して築こうとしました。慶長6年(1601)に上杉氏は、米沢30万石へ移封となり、城は破城され、更に寛永16年(1639)領主加藤氏が、石垣を総て若松城(鶴ヶ城)に運び去り、神指城は廃城となりました。

【感想】
駅で自転車を借り、城址を回りました。
高瀬のケヤキくらいで他には何もないと思っていたのですが、大河の力なのか、整備もされており看板も立っており回りやすくなっています。
しかし、どうみても間違っているだろうと思える場所に看板があったり、違う場所のCGを説明していたり混乱してしまう可能性があります。
もう少し看板を立てる場所を注意して欲しいなと思いながら見て回りました。
一通り回るとその広さがわかります。


登城日 2012年6月30日(土)
LINK あかべぇガイド車DE会津観光〜神指城
神指城-Wikipedia
城主家紋 【竹に二羽飛び雀】
(藤原氏勧修寺流)
上杉氏家紋

                      

探訪

※説明板の絵図より(加筆あり)
【二ノ丸北東角土塁】
この土塁の上に有名な高瀬の大木(欅)があります。
【案内板】  【高瀬の大木(欅)】
天然記念物です。
【高瀬の大木の根元】 【神指城石垣の基礎石】 【本丸跡】
【天守建設予定場所】
未完の城のため建てられることのなかった天守はこの場所に5層の大天守と3層の小天守が建つ予定であった。
【天守建設予定場所より見た高瀬の大木】 【本丸西口御門跡(搦手口)】
西口御門下には船着場もあったようです。
ここから内掘を経て川に出て日本海へと出ると考えていたようです。
【本丸南西部】
本丸坤側に残る土塁で石垣あとになる。また横矢懸かり跡もある、
【本丸南側高石垣跡】 【見学用の遊歩道】
【本丸南側横矢懸かり跡】 【本丸南側高石垣跡】
この説明版には午(南)口高石垣跡と書かれているが、説明文の上の図にも本丸に南口は無いのだが・・・
【穴太積み石垣跡】
穴太積み石垣跡と書かれているが、どうみても拾い集めてきた感が強い。
【本丸跡】 【石垣に使用されたと思われる大石】 【内掘跡】
ここは本丸の東側であるはずなのに、この説明版には本丸西御門濠跡と書かれている(なぜ?完全に間違いでしょう)。
【湯歩道入口】
どうやら逆から回っているようである。
【本丸跡と説明板】 【新撰組殉難地】
戊辰の役会津に来援の新撰組副隊長土方歳三ら百数十名は白河口母成口等で防戦につとめ9月4日にはこの如来堂の激戦で隊長役山口次郎らが大いに戦い13名は花と散った。
【如来堂】
この如来堂が建つ場所も、神指城の土塁の上になる。
【二ノ丸南東角土塁跡】
田圃の中にポッツんと小高い丘があるのがこの土塁。説明版はなし。
【南東角より見た高瀬の大木】
【本丸虎口から見た登場道】
正面が櫓門跡(二ノ丸虎口)になる。




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