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※地図上の赤い線は大体です。
城名 長谷堂城(別名:亀城)
住所 〒990-2363
山形県山形市長谷堂
入場時間
入場料
指定文化財 なし
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 最上氏
築城年 16世紀初期
主な改修者
主な城主 最上氏、志村氏、坂氏
位置 北緯38度12分45.6秒
東経140度16分20.76秒
地図 帯曲輪群
本丸
枡形虎口
二重横堀
帯曲輪
【概要】
長谷堂城は山形盆地南西端に位置する、麓からの比高差が約85mの城山と呼ばれる独立丘陵に築城されています。一番高い部分に主郭があり、その下方に幾段もの平坦な曲輪が造成され、間を縫うように通路が造られています。南は本沢川が天然の堀の役割を果たし、西から北端を廻り東側にかけては、一部二重の水堀と土塁が廻っていました。現在、土塁は失われていますが、水堀の一部は水路などとして残っています。内側の水堀と土塁は内町・西向地区を、外掘りは出倉地区を包んで、城郭と町場の双方を防衛する様な構造になっていました。

【長谷堂城の戦い】
慶弔5年(1600)9月、会津の大名上杉景勝の重臣、直江山城守兼続率いる精兵2万余は、怒涛のごとく最上義光の領地になだれ込んだ。
9月13日朝、畑谷城を攻め落とした直江軍は、ただちに山形に向かって進撃、同14日、菅沢山に本陣を置き山形最後の防衛拠点たる長谷堂城を包囲した。
城は最上随一の堅城。守将は義光の信頼厚い知将志村伊豆守光安、副将は豪勇鮭延越前守秀綱。兵力は推定わずか1000ほどであった。戦いは、当初直江方の圧倒的な兵力に押され気味だったが、次第に地の利を生かした固い防衛と城兵の奇襲攻撃が功を奏し、さすがの直江も攻めあぐんだ。戦いは膠着状態となる。こうして約半月、9月末に関ヶ原において徳川方勝利、石田方惨敗の方が到来する。
「戦いは、もはやこれまで」
兼続は決断し、10月1日、立ち込めた朝霧のなか、全軍撤退を開始する。逃走する直江軍、追い撃つ最上・伊達軍。長谷堂、富神山の周辺は修羅の場となった。この戦いの戦死者は上杉1600、最上・伊達600、合計およそ2200。史上稀に見る大激戦であった。こうして山形は戦禍を免れたのであった。
※表示板より

【感想】
長谷堂の合戦で有名なこの城の眼下には合戦が繰り広げられた場所が広がり、直江兼続本陣や山形城まで目指することができます。
合戦場としてはそれほど広くはない場所ですが、兼続の本陣跡まで行くと戦いの様子を想像することができるので良かったです。

登城日 2012年9月2日(日)
LINK 山形観光協会HP
長谷堂城-Wikipedia
城主家紋 【二つ引両】
(清和源氏足利氏流)
最上氏家紋

                      

探訪

※表示版より(加筆有り)
【長谷堂城遠景】 【水堀跡】(復元) 【土橋と水堀】(復元)
【水堀】(復元)
横矢折れになっている。
【八幡崎口】 【八幡神社】
【登場道】 【阿弥陀堂方面を見下ろす】 【登場道】
右側には段々に曲輪群がある。
【帯曲輪群】
一段目と二段目。
【土塁】 【曲輪】
【横矢掛り】 【本丸の枡形虎口】
稲荷神社が桝形の中にある。
【枡形虎口】
【本丸跡】 【城址碑】 【本丸からの眺望】
遠くに山形城を確認できる。
【本丸からの眺望】
こちらからは直江兼続が本陣を置いた菅沢山が見える。
【曲輪群】 【春日神社】
【長谷堂観音の鐘堂】 【長谷堂観音】 【二重横掘】
【城南西部】
湯田口と西向口の間にある。ここも帯曲輪か?
【切岸】 【切岸】
【城北側の帯曲輪】 【城北側の帯曲輪より見た兼続本陣跡】 【城北側の帯曲輪】
この場所が長谷堂城最大級の規模の帯曲輪で、八幡口・内町口と本丸を結ぶ重要な位置にある。このため虎口を設け、各通路をこの曲輪のしたに設けて側面攻撃ができるように工夫されている。
【帯曲輪に設けられた虎口】 【阿弥陀堂入口】 【阿弥陀堂と観音像】
【内町口(大手口)】 【長谷堂城戦没者碑】 【長谷堂城遠景】
主水塚付近より。
【主水塚】
長谷堂城の合戦の最激戦地で不世出の剣豪と称された直江の武将上泉主水泰綱が壮烈な討死を遂げた場所。
【菅沢山の直江兼続本陣跡】
主水塚付近より。
【菅沢山の直江兼続本陣跡】
【直江兼続本陣跡より見た長谷堂城】




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