powered by 地図Z
※地図上の赤い線は大体です。
城名 小田山城
住所 〒965-0822
福島県会津若松市花見ヶ丘三丁目
入場時間
入場料
指定文化財 なし
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 葦名光盛(葦名家三代)
築城年 14世紀
主な改修者
主な城主 葦名氏
位置 北緯37度28分46.824秒
東経139度56分43.767秒
地図 主郭
物見櫓跡
堀切
冠木門
新政府軍砲陣跡
【概要】
葦名氏は、三浦半島を本拠とする三浦義明の十男、佐原十郎義連が文治5年(1189)に会津を拝領し、20代葦名義広が、天正17年(1589)磐梯山麓の摺上原で伊達政宗に敗北するまでの400年間領主となっていた守護大名である。葦名氏は鎌倉時代前半、三浦半島に住んでいたが、13世紀後半になると会津に入り、館や城を築くようになる。戦国時代、政治の場、生活の場とする「居館」とは別に、最後の砦として「山城」を築くことが一般的で、葦名氏は、居館とする「黒川城」(現在の若松城)と1.5km離れて山城の「小田山城」を築いていた。
小田山城は、14世紀に築かれた山城で16代盛氏が永禄11年(1568)に向羽黒山城を築くまで機能してた。南北約2.5km、東西約1.5kmの範囲があり、小田山山頂と青木山と呼ぶ奴田山山頂に大きく分かれている。
小田山山頂には、丹羽家墓や田中玄宰(はるなか)墓を中心に、北へ向かって三日月状の平場約25段と高さ1m以内の土塁が築かれ、現在の道路部分は平場を利用して造られている。戦国時代、平場をまとめて「曲輪」と称し、曲輪には「虎口」と呼ばれ入口「冠木門」が設けられ、門の両側には柵や塀が設置されていた。曲輪の内部には、掘立柱建物や櫓が建てられたと推定され、常時監視役の兵が守備にあたり、緊急の場合には狼煙などで黒川城と連絡をとっていた。

【戊辰戦争】
慶応4年(1868)8月23日、会津軍は城門を閉じ籠城に入りました。翌24日東部戦線にあった会津藩兵も漸次退き、ひとまず城内に入りました。翌25日に進攻してきた新政府軍に、地形上にすぐれていることを内通する者がいて、新政府軍は小田山上に砲塁を築きました。薩摩・鍋島・松代・大村・土佐・岡山・加賀の諸藩は城を眼下に見下ろしながら、一斉に砲門を開きました。小田山上と城までの直線距離は約1.6km。鍋島藩のアームストロング砲は二千数百mの射程距離があり威力を発揮しました。当初本丸まで弾丸が届かぬ大砲がありましたが、砲口を上に向けて発射するようになって、本丸まで無数の弾丸が届くようになりました。焼き玉も使われて、しばしば城内に火災が発生し、城中の驚きは一方ではありませんでした。
会津軍も急遽砲を豊岡東照権現堂の付近及び三の丸に出して応戦し、一時は小田山上の砲門を沈黙させたと言います。新政府軍は更に館の荒神、慶山村の畑地に砲門を据え、小田山上と合わせて三方から天守閣を目標にしてさかんに砲撃を開始しました。会津軍も8月27日青木・小田の線より小田山奪還を試みましたが猛反撃を受け奪還は失敗しました。
9月14日より三日間、西軍は小田山・館・慶山の砲門をはじめ若松城下外郭16門に砲列を布き、一斉に砲撃を開始しました。この総攻撃により、城内は修羅場と化し、将軍婦女子に多数の死傷者を出しました。

※表示板より

【感想】
小田山城から若松城を見るといかに小田山が砲撃する場所として有効かが一目でわかります。こういう事態を恐れて直江兼続は若松城から神指城へ移ろうとしたのではと考えさせられる。
小田山城自体は平場は登城道で改変がかなりあるが往時の面影は残り、主郭から堀切までは景色も最高でした。

登城日 2013年1月13日(日)
LINK 会津若松観光ナビ-小田山公園
八重のふるさと福島県-八重が刻んだ足跡
城主家紋 【三つ引両】
(桓武平氏三浦氏流))
葦名氏家紋

                      

探訪
【登城口】 【登城道】 【葦名家寿山廟(下)】
【(伝)八代葦名詮盛墓跡】 【寿山廟案内図】 【寿山廟案内図】
【六代葦名盛員嫡男高盛墓跡】 【観音清水(乳清水)と幕末射撃場跡(金峯尊公大禅尼の墓)標柱】
この下に金峯尊公大禅尼の墓があり、幕末はその塚を標的にして射撃練習をしたそうです。
【観音堂跡】
この場所に文和3年(1354)葦名7代領主直盛母堂笹谷御前が、観音堂を建立し、如念輪観世音菩薩を祀ったと言われています。
【葦名家寿山廟(上)】 【(伝)四代葦名泰盛墓跡と小田山古墳跡碑】 【小田山古墳群の説明板と柴四朗・柴五朗の墓案内板】
右下の道を進むと恵倫寺に行くことができそこに柴四朗、五朗の墓があるようです。(幕末〜大正時代の人のようです。)
【新政府軍砲陣跡下段】 【砲陣より見た会津若松城】 【左のズーム】
本丸から天守、走り長屋に干飯櫓まで見渡すことできます。
【新政府軍砲陣跡上段】
現在の登城だと下段と道を一つ隔てた上になります。
【砲陣跡より見た会津若松城】 【冠木門(復元)】
往時を偲ばせる造りが良かったです。
【冠木門内側の塀と狭間】
現在、内側は何処にもつながっていない閉ざされた空間となっている。
【冠木門内側の柵】 【小田山城曲輪群】
冠木門から登城路を一段上に行くとこの表示板から冠木門までの間が段々となる平場が築かれていることがわかります。
【大手口】
現在の登城道は平場を利用しているため改変されてしまっているが、大手口は先ほどの曲輪群を含めて7段の三日月形の曲輪が連続しています。
【二ノ郭】
二ノ郭には丹羽能教(よしのり)の墓の他丹羽家の墓がある。二本松城の丹羽氏とは関係はないようである。幕末の軍事奉行を務め北方警備や江戸湾警備を命じられ海防に力を尽くしたそうです。
【本郭】
【田中玄宰(はるなか)墓】
本丸の中心部に建つ。会津藩の名家老で後に大老に任じられた。そのころは天明の大飢饉の直後で荒廃した農村経済を立て直した。
【小田山城址碑】 【本郭より見た物見櫓跡】
【物見櫓跡】 【物見櫓跡からの眺望】
この写真の左端に若松城を見ることができる。
【堀切跡指標】
【堀切】 【堀切】 【会津領主葦名家廟跡】
【第17代葦名盛興公の墓】 【第16代葦名盛氏公の墓】 【第18代葦名盛隆公の墓】




Back



inserted by FC2 system