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城名 | ノツカマフ1・2号チャシ (別名:ノツカマフ1・2号砦,根室半島チャシ跡群) |
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住所 | 〒087-0002 北海道根室市牧の内 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 面崖式チャシ | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 不明 | |||
築城年 | アイヌ文化期(13〜19世紀) チャシ構築時期は18世紀までとされる |
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主な改修者 | ー | |||
主な城主 | 不明 | |||
位置 | 北緯43度23分29秒 東経145度40分8秒 |
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地図 | 1 | − | ||
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100名城 スタンプ |
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【歴史と沿革】 ノツカマフ1・2号チャシ跡はノツカマップ湾に突き出した岬の上に所在する。オホーツク海を一望できる崖上に、半円形の壕が巡る。1号は幅5m深さ約3mの半円形の壕が70m×25mの範囲で2つ連結しており、堀の内側が盛土されている。2号の壕は幅約3m、深さ約0.5mで半円形の浅い壕が巡る。 この地はノツカマップというアイヌ語で「岬の上にあるところ」という意味です。1754年には松前藩の役人やこの地を経営する和人が住むようになりました。 1778年にロシアの商人シャバーリンやオチェレデンがノツカマップに来航、1789年のラクスマン来航に先立ち、非公式訪問ながら根室とロシアの関わりを示す最初の出来事である。 1789年には、この地域を治めていた和人が、アイヌ民族に対し、過酷な労働や暴力的な支配を行ったことが原因でアイヌ民族らが、国後島の泊周辺や羅臼・標津地方で、和人71人を殺害した「クナシリ・メナシの戦い」が起こる。松前から鎮圧軍が派遣されたが、ノツカマップの総首長ションコら、アイヌ民族の長老が間に入り全面衝突は回避された。しかし、戦いに関わったアイヌ民族37人はノツカマップに集められ処刑された。それまでは、根室の中心はノツカマップだったが、この事件以降は、現在の根室湾周辺に中心地が移された。 (現地説明板およびパンフレット「歩いてみる根室市の文化遺産」より) ※「歩いてみる根室市の文化遺産」と現地説明板では1・2号が逆になって説明されている。ここでは現地説明板に合わせて記載した。 【感想】 根室には数多くのチャシがあるが殆どが私有地で開放されていない。現在見られるのは、ヲンネモトチャシとここノツカマフ1・2号チャシのみである。ここはヲンネモトチャシに比べ半円形の壕が巡るだけであるが、以前はここが根室の中心地だったということはこの周辺にアイヌ民族の村が点在しロシアとの貿易により栄えていたのであろう。しかし今となってはその様子を伺えるものは何もない。 |
スタンプ 設置場所 |
根室市歴史と自然の資料館 /根室市観光インフォメーションセンター |
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登城日 | 2014年5月31日(土) | |||
LINK | 根室振興局-根室半島チャシ跡群 | |||
根室半島チャシ跡群-Wikipedia | ||||
城主家紋 | − | − |
【根室市歴史と自然の資料館にある模型】 | 【ノツカマフチャシ遠景】 | 【ノツカマフチャシ目印】 この場所に駐車できるが1台分程度しかない。 |
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【チャシまでの遊歩道】 | 【ノツカマフチャシ説明板】 | 【ノツカマフ1号チャシ】 半円形の壕が2つ連結して構成されている。 |
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【ノツカマフ1号チャシ】 | 【ノツカマフ1号チャシ】 | 【ノツカマフ1号チャシ】 | |
【ノツカマフ1号チャシ】 | 【ノツカマフ1号チャシ】 | 【ノツカマフ1号チャシ】 | |
【ノツカマフ2号チャシ】 半円形の壕が一つ巡り、幅2〜3mで深さ50cm程度と壕が浅く作られています。 |
【ノツカマフ2号チャシ】 | 【ノツカマフ2号チャシ】 | |
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【ノツカマフ2号チャシ】 | 【ノツカマフ2号チャシ】 | − |