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城名 | 天童城(別名:舞鶴城、天童古城) | ||
住所 | 〒994-0000 山形県天童市大字天童字城山 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | なし | |||
城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 北畠天童丸?/天童頼直 | |||
築城年 | 建武3年(1336)/天授元年・永和元年(1375) | |||
主な改修者 | ― | |||
主な城主 | 天童氏 | |||
位置 | 北緯38度21分3秒 東経140度22分41秒 |
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地図 | 1 | 主郭 | ||
2 | 中央郭 | |||
3 | 井戸郭 | |||
4 | 北郭 | |||
5 | 西郭 | |||
【概要】 山形県天童市の舞鶴山(標高241.8m)にあった山城。全山を城塞化した規模の大きな城で、村山地方で最大の山城といわれている。南北朝時代に北畠親房の末裔の北畠天童丸が南朝方の拠点として居館を構えたのが最初。天授元年/永和元年(1375)には、斯波兼頼(奥州探題斯波家兼の次男、最上氏の祖)の孫の里見義直が入城して天童氏を名乗り、その後、里見氏の家系が途絶えると、最上氏一門の最上頼直が養子となって城主となり、天童の姓を引き継いだ。 こののち天童氏は、この城を拠点に村上郡の大勢力となり、最上八楯の中心的な存在として、米沢の伊達氏と誼を通じて山形城の最上氏と対立した。天正5年(1577)、天童城を攻めた最上義光を撃退したが、天正12年(1584)、義光の再度の天童城攻めの際、延沢信景などの家臣の裏切りにより落城し、その後廃城となった。 天保元年(1830)、織田氏(織田信長の次男信雄の後裔)が現在の群馬県から転封されて天童藩主となり、舞鶴山の西麓(同市田鶴町)に外堀と内堀を持つ御館といわれる陣屋(天童陣屋)を築いた。天童藩は戊辰戦争で新政府側に与し、旧幕府方の庄内藩を攻撃したが、逆に攻め込まれ、 その際に陣屋は焼失した。現在、城跡は天童公園(天童市舞鶴山公園)として整備され、桜やつつじの名所となっている。人間将棋の行われる巨大な将棋盤もここにある。中世の山城跡には郭・井戸跡がわずかに残っている。 また、本丸跡には愛宕神社が建っているが、同神社は最上義光が同城攻略後に勧請したものだとされている。ちなみに、義光は二度にわたる城攻めで、その堅固さに手を焼き、こののち城として利用できないよう愛宕神社を建立したともいわれている。 【感想】 整備され公園化している中央郭に比べ主郭部分は、良好に遺構が残っており、見応えがあります。それにしても城域は広大で、行けないところも多くあるようです。 夏場に訪れたので階段上の曲輪郡をよく確認できなかったのが残念であった。 |
登城日 | 2014年7月18日(金) | ||
LINK | 天童市-天童公園- | |||
天童城-Wikipedia- | ||||
城主家紋 | 【二つ引両】 (清和源氏斯波氏流) 天童氏家紋 |
※案内板より |
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【天童織田藩 織田氏宗家の系図】 | 【建勲神社】 全国に2ヶ所しかない織田信長公を祀った神社。 |
【矢場跡】 廃藩置県後、旧天童藩士高見沢琢磨らを中心として、この地に弓道場を設け、斯道の興隆をはかった。昭和初期まで矢場の相性で市民に親しまれた。 |
【西側の段築】 | 【中央郭】 この場所で毎年天童桜まつり「人間将棋」が行われる。 |
【将棋の碑】 |
【中央郭北側より】 | 【中央郭北側下段】 | 【中央郭北側の「天童古城記念碑」】 この碑では、築城主は天童頼直と書かれている。 |
【中央郭北側上段】 展望台があり、天童市内を一望することができる。往時もこのように物見としての機能があったのかも。 |
【中央郭北側上段の展望台からの眺望】 | 【中央郭北側上段のけやき】 |
【吉田大八公像】 幕末の天童藩家老。 |
【中央郭付近から見た主郭部】 | 【麓の愛宕沼】 |
【天童城主郭部への登城道】 主郭部麓を回りこんで行く。 |
【井戸郭】 | 【石組古井戸跡】 |
【愛宕神社参道の石段(下部)】 この上に主郭部もある。 |
【愛宕神社鳥居】 | 【愛宕神社参道の石段(上部)】 |
【愛宕神社社殿】 | 【物見櫓台跡】 | 【物見櫓台跡】 |
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【主郭跡】 | − | − |
【大手門跡】 | 【天童御陣屋絵図】 | 【陣屋内屋敷跡】 |
【喜多郎稲荷神社】 | 【天童織田藩記念碑】 | 【天童陣屋付近のクランク】 |