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城名 | 岩崎城(別名:一名建ヶ城) | ||
住所 | 〒012-0801 秋田県湯沢市岩崎字千年 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | なし | |||
城郭構造 | 連郭式平山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 藤原河内守 | |||
築城年 | 建長・文永年間(1249-1274) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 岩崎道高、岩崎義高、原田大膳 | |||
位置 | 北緯39度12分19秒 東経140度30分49秒 |
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地図 | 1 | 本丸 | ||
2 | 二ノ丸 | |||
3 | 三ノ丸 | |||
4 | 櫓跡 | |||
5 | 玉子井戸 | |||
【概要】 岩崎城の築城年代は定かではないが鎌倉時代の建長・文永年間(1249年〜1275年)頃に岩崎河内守によって築かれたと云わります。稲庭城主小野寺経道が一族の藤原河内守を岩崎の地に封じ、河内守が岩崎城を築いて岩崎氏を称し湯沢城の北側を守備していました。 天正18年(1590)、秀吉の「奥州仕置」により雄勝郡は最上氏の領土と認定されましたが、横手城主小野寺義道は、これを認めずに雄勝郡の支配を継続しました。 これを聞いた山形城主最上義光は文禄4年(1595)、実質統治を目指して楯岡城主楯岡満茂が率いる最上軍を雄勝郡に差し向けます。最上軍により湯沢城が落城したことを聞いた岩崎城主岩崎義高は、次の攻略目標は岩崎城だと考え、横手城の小野寺義道に援軍を要請しましたが、同日に角間城、植田城、鍋倉城、新田目城、今泉城が最上軍の攻撃にあったため、岩崎城まで手が回らず、 ほとんど援軍が来ませんでした。 岩崎城の兵力が少数であるという情報を得た前森城主原田大膳は岩崎城に夜襲を仕掛け、それにより義高は討死し、岩崎城は落城しました。 その後、原田大膳が岩崎城の城主となり、以後は最上氏の属城として「関ヶ原」まで小野寺氏との軍事緊張が続いたとされています。 慶長7年(1602)、佐竹義宣の移封後は佐竹氏の城となり、元和元年(1615)、一国一城令により廃城となりました。現在は千年公園として整備されている。 -玉子井戸の謂れ- 城主岩崎道高の娘である能恵姫が生まれて少し経った頃に何故か泣き続けるようになり、いろいろ手を尽くしたが効果がなかった。その数日後に乳母が姫を抱いて庭を散歩して大木の下に来たところ、急に姫は泣き止んで笑みをうかべすやすやと寝入りました。その大木の根元には卵の形をした石があり、この石を姫の「守り石」としたそうです。その石がこの井戸に祀られています。 平成4年夏に井戸の清掃をした際に白くつるつるとした光沢のある「守り石」を発見したそうです。 【感想】 千年公園として整備されているので夏場でも苦労することなく見ることができます。 城址としてはそれほど大きくはないですが、近くに流れる皆瀬川を天然の堀とし、城址の東を通る奥羽本線は堀跡を通っているそうです。 |
登城日 | 2014年7月19日(土) | ||
LINK | 湯沢市HP-千年公園- | |||
岩崎城(出羽国)-Wikipedia- | ||||
城主家紋 | − | − |
【鹿島様】 武神を象徴した藁人形で東北地方の村落に多く祀られている。 |
【八幡神社】 ここが城址入口となる。 |
【八幡神社・社殿】 この社殿右側より三ノ丸跡へ行くことができる。 |
【三ノ丸跡】 | 【玉子井戸】 秋田三大伝説 能恵姫(のえひめ)物語に出てくる井戸。 |
【能恵姫の像】 |
【二ノ丸跡】 二ノ丸は細長い帯状になっている。 |
【二ノ丸跡】 突き当りの小高い箇所が櫓跡とされる。 |
【櫓跡】 現在は高辻神社が建っている。 |
【二ノ丸跡】 | 【登城道(二ノ丸)】 | 【本丸跡】 本丸はL字型の形状をしている。 |
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【本丸跡】 | 【本丸より見た皆瀬川】 | − |