城名 脇本城(別名:大平城、生鼻城)
住所 〒010-0343
秋田県男鹿市脇本地内(田谷沢)
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 不明
築城年 14世紀頃か?
主な改修者 安東愛季
主な城主 安東氏
位置 北緯39度54分9.3秒
東経139度53分20.7秒
登城日 一回目:2014年7月21日(月)
二回目:2023年4月30日(日)
LINK 男鹿市HP-脇本城跡-
脇本城-Wikipedia-
城主家紋 【檜扇に鷲の羽】
(安倍貞任の後裔か?)
安東(秋田)氏家紋
【概要】
天正5年(1577)下国安東愛季(ちかすえ)が大規模に修築し居城とした城として知られる。愛季はもと檜山城主であり、元亀元年(1570)秋田湊城を統合して、小鹿島をも直轄地とし、「ひのもと(蝦夷)将軍」として蝦夷管轄をも担い、織田信長との交渉のさなか、脇本城を居城とした。盛時の縄張りは茶臼館や岩倉館まで含む。

もともと14世紀頃から城館が営まれていたとみられ、愛季の後の城主は脇本五郎郁末(なかすえ)の伝承を伴っている。

天正17年湊合戦で戦場となり、豊臣大名秋田実季(さねすえ)の代には本格的な修築は許されなかった。近世には大平(おおたいら)城跡・生鼻(おいはな)城跡の通称でも伝えられたが、文化7年(1810)大地震のさい生鼻岬700m余りが海中に没し、現在は本丸とみられる地域に郭・土塁・空堀・井戸跡等が残り、黄瀬戸・青磁・珠洲陶などが出土する。
(案内板より)


【感想】
炎天下の中を訪れたので、この広大さにさすがに疲れました。館跡等があった場所のようで郭は土塁で仕切られているところが多く見られた。馬乗り場地区は、内館地区から徒歩15分くらい離れた場所にあり、途中いつ着くのか不安になりながらたどり着くがこの時期、藪化がひどく、まったくわからないのが残念であった。やはり秋頃が訪れるには最適なのでしょう。

                      

探訪

※全体案内図

※内館・生鼻崎地区の遺構

※馬乗り場(古館)地区の遺構
【天下道】
すぐ隣には国道101号線が通っている。
【登城口】
この場所が脇本城と示すものが多く建っている。
【案内板】
【登城口】
左側が通称男坂、右側が整備された女坂。男坂は夏場は草が生い茂ってしまっているので女坂の方が良い。
【合流点】
菅原神社前で男坂と女坂は合流する。
【菅原神社】
【天下道】
菅原神社横を通って城内へと続く。
【脇本城案内所】
人は居ないが案内所があり、ここにパンフレットが置かれているのでもらっておくと良い。
【脇本城全体模型】
【登城道】
天下道は本来ここより右側方向へ伸び城内の内舘を横切るように続いていたようです。
【登城道】
この先は内館地区の中央部になる。
【内館跡に立つ説明板】
【内館中央部より見た館跡群跡方向】
館跡群跡は上下二段にわかれている。
【館跡群跡下段より見た上段(生鼻岬)】 【館跡群跡下段より見た上段(生鼻岬)】
二回目は前日が雨だったため大きな水溜りが出来ていました。
【館跡群跡下段の土塁】
下段部分は土塁で仕切られていたようです。
【館跡群跡下段の土塁】 【館跡群跡下段の土塁上】
【館跡群跡からの眺望】
男鹿半島の付け根である脇本からの眺め。
【館跡群跡からの眺望】
カメラの望遠だと八郎潟も見ることができる。
【館跡群跡下段のもう一段下の腰曲輪】
【館跡群跡下段のもう一段下の腰曲輪の井戸跡】
前日の雨で井戸跡にも水が溜まっていた。
【館跡群跡上段へ続く道】 【館跡群跡を示す標柱】
【館跡群跡を示す標柱付近から見た北側の眺望】 【生鼻岬方向】 【生鼻岬方向】
【竪堀】
緩やかだが下方へと伸びる竪堀
【竪堀】 【館跡群跡上段】
【館跡群跡の土塁】 【生鼻岬より見た男鹿半島】 【男山・屋敷跡】
【内館中央の空堀】 【内館中央の空堀】 【内館中央の空堀】
【内館中段部への虎口】 【内館中心部への虎口】
この部分は整備されすぎている感が強いので後世に作られたものか?
【内舘跡(中心部)】
【内館中段部(主郭部)から見た空堀】 【内館中心部から見た館跡群跡】 【大土塁】
【大土塁下の井戸跡】 【館神堂跡】
三方を土塁で囲まれた場所にある。
【館神堂跡】
【大土塁】 【東端の曲輪(城主屋敷跡)】 【東端の曲輪を二分する土塁】
【東端の曲輪から見た城下町】 【東端の曲輪・城主屋敷土塁と門跡】 【内館中心部の天下道】
左側が館跡群跡になり、右側が内館中段部(主郭部)となる。
【内館中段部(主郭部)】
ここに井戸跡もあるようですが藪でわからず。
【内館中段部(主郭部)】
二回目のときは、藪は無く、説明板が出来ていた。
【主郭部井戸跡】
【内館中段部の反対側の井戸跡】 【天下道】 【天下道】
この先に「馬乗り場地区」があるのだが、ここより城域を大回りして徒歩で15分かかる。この標柱にはかねつき堂と書かれているが、藪がひどく行くことは出来なかった。
【馬乗り場(古館)を示す標柱】
ここまで来ると天下道の表記は見られなくなるので天下道は途中で分かれていたのだろうが、いつ分かれ道があったのかはわからなかった。
【馬乗り場(古館)を示す標柱】
その他に「竪土塁群」と書かれているが、下を見ても確認は出来なかった。
【馬乗り場(古館)跡の標柱と説明板】
道を進むと階段があり(ほぼ藪に埋もれてましたが)、一段と高い場所にこの郭がありました。郭の南西部にこの虎口がある。
【馬乗り場地区】
説明板を見ると土塁に仕切られた郭が幾つかあるようだが、藪がすごく判断は出来なかった。写真は説明板付近から見た南東方向。
【馬乗り場地区】
正面(西方向)が説明板が置かれていた虎口になる。
【土塁】
南北を仕切る土塁になる。
【井戸跡】
南北を仕切る土塁東側部分の北側脇にある。
【脇本城で一番高い部分】
標高が117mとなっている。ちょうど説明板の横になる。




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