powered by egmap.jp |
城名 | 湊城(別名:土崎湊城) | ||
住所 | 〒011-0946 秋田県秋田氏土崎港中央3丁目9番 |
|||
入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | なし | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 安東実季 | |||
築城年 | 慶長2年(1597) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 安東氏、佐竹義宣 | |||
位置 | 北緯39度45分17秒 東経140度4分27秒 |
|||
地図 | 1 | 児童公園 | ||
2 | 土崎神明社 | |||
3 | − | |||
4 | − | |||
5 | − | |||
【概要】 慶長2年(1597)、土崎湊に檜山城(能代市)に代わる新たな居城として、二重の濠をめぐらした新しい大規模な平城の建設に着手した。こうして慶長6年(1601)にできあがった。新城完成の翌年、秋田氏を名乗るようになっていた安東氏は常陸国宍戸へと転封となる。 代わって秋田に国替えとなった佐竹氏の当主佐竹義宣が湊城に入城した。 大大名の佐竹氏にとって湊城は手狭であったのか、すぐに久保田城の建設を開始。 同城完成後、湊城は廃城となった。 その建物は元和元年(1615)の一国一城令を受けて取り壊され、元和6年(1620)には、その跡地の一角には土崎神明社が建立されたほか、敷地は町人の住居や店舗になり、江戸時代の土崎湊町の中心部となった。こうしたことから、湊城の遺構はほとんど残っていない。昭和30年代まで同城の内堀の一部とされる水堀が残っていたが、その後の宅地化で埋め立てられてしまったため、土崎神明社の隣の児童公園内に、土塁と思われる遺構がわずかに残るだけである。 【感想】 土崎駅ほど近くに土崎神明社はあるが、その手前の児童公園も城址になり、説明板、湊安東氏顕彰碑の他、唯一遺構として残る土塁跡を見ることが出来ます。児童公園から土崎神明社の境内に入ると、土崎港曳山まつりの最中であった。そのため土崎神明社の入口にはババヘラアイスの出店が出ており、写真を撮りながら、アイスを注文してました。 湊城は遺構は皆無なので、お祭りの日に訪れると良いかもしれません。 |
登城日 | 2014年7月21日(月) | ||
LINK | 土崎神明社 | |||
湊城-Wikipedia- | ||||
城主家紋 | 【檜扇に鷲の羽】 (安倍貞任の後裔か?) 安東(秋田)氏家紋 |
【説明板】 | 【湊城跡】 今は児童公園となっている。 |
【湊安東氏顕彰碑】 |
【土塁跡】 | 【D51】 | 【湊城跡・土崎神明社】 |
− | ||
【湊城跡・土崎神明社鳥居】 | 【湊城跡・土崎神明社社殿】 | − |