城名 | 三春城(別名:舞鶴城) | |||
住所 | 〒963-7759 福島県田村郡三春町字大町164 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 町指定史跡 | |||
城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 不明 | |||
築城年 | 不明 | |||
主な改修者 | 松下長綱 | |||
主な城主 | 田村氏、加藤氏、松下氏、秋田氏 | |||
位置 | 北緯37度26分33.2秒 東経140度29分47.4秒 |
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【概要】 三春城跡は、中世から近世の田村地方を治めた大名の居城跡で、三春町中心部の大志多山いあり、その美しい姿から舞鶴城とも呼ばれました。面積は約200,00uで、麓から約00mの最高所に、標高407.5mの四等三角点があります。この内、本丸や二の丸、三の丸がある中腹以上の約39,500uを、町の史跡に指定しています。 [中世] 永正元年(1504)に戦国大名の田村義顕が築いたと伝わっていますが、14世紀の遺物・遺構が発見されたことから、遅くとも南北朝時代には城館として機能していたようです。当初は、痩せ尾根に沿って棚田のような狭い平場が並んでいましたが、16世紀初め頃に火災があり、その後行われた大規模な造成工事により、現在の様な地形が形成されたようです。田村氏は、義顕、隆顕、清顕と3代続きますが、天正14年(1586)に清顕が急死したため、一人娘の愛姫の夫である伊達政宗が後見して清顕の甥・宗顕を城主にします。そして、政宗はこの城を足掛かりにして南奥羽を制覇しました。この間、城の周囲にたくさんの堀や土塁、石積みが築かれ、三春城は仙道(中通り)を代表する戦国の城砦となりました。 [桃山時代〜江戸時代初期】 天正8年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置きにより田村氏は改易されました。三春は一旦伊達領になりますが、翌年には会津に入った蒲生氏郷の領地に組み込まれ、会津若松城の支城のひとつになります。この時代は、蒲生氏の重臣たちが城代を勤め、本丸周辺に石垣を築くなど城と城下町の整備を進めました。なお、上杉景勝が会津藩主だった慶長3年から6年(1598〜1601)前後は、三春城ではなく郡山氏田村町の守山城が支城として使われました。そして、寛永4年(1627)に蒲生忠郷が没すると、替って会津に入った加藤嘉明の三男・明利、さらに翌年には嘉明の娘の子である松下長綱が3万石の三春城主となります。松下氏は、三春城を近世大名の居城にふさわしい白壁に瓦葺きの城郭へと改変しました。 [江戸時代] 寛永2年(1644)い松下氏が改易されると、翌年には秋田俊季が5万5千石で三春に入部し、明治維新まで秋田氏1代の居城となりました。秋田氏は、現在小学校がある西の麓に御殿(居屋敷)を建設して日常の政務や暮らしの場とし、山上の本丸御殿は儀式の時にだけ使用しました。 [近現代] 戊辰戦争で、三春藩は図らずも奥羽越列藩同盟に加わりますが、新政府軍の攻撃を受ける直前に恭順し無血開城を果しました。しかし、維新後は建物のみならず石垣や礎石まで払い下げられ、大正になると公園として整備されました。このため、残された一部の石垣と、切岸や天然の要害の地形に、かつての面影を残すだけとなっています。 [戦国時代の構成] 江戸時代の本丸上の段を本丸、下の段を二の丸とする絵図もありますが、資料が少ないため詳しくはわかりません。本丸から派生する尾根筋を単位として江戸時代の二の丸や三の丸、宝来寺、国道を挟んで北側の月斎館跡(義顕の弟・頼顕の屋敷と伝わる)など独立した防禦ラインが想定できる大きな曲輪群があり、本丸と並ぶ立つ一族や重臣の屋敷跡と推測されます。隆顕の後室・伊達氏の屋敷跡(東館)と伝わる三の丸周辺には、竪堀や土塁、堀切の跡が見られ、東側の町民の森周辺に石積みが残されています。 [江戸時代の構成] 蒲生氏が石垣を築き、松下氏が主要な施設を建設しますが、秋田氏は西麓に居屋敷を築いて居所とします。本丸の上の段には、君臣が一堂に会する広間と台所、藩主の控え室となる御座間がありました。下の段には、天守に準ずる三階櫓と、両脇に石垣を配した櫓門の表門、多聞櫓状の長屋から連なる石垣の上に架した渡櫓門の裏門といった大型の建築物が平場の縁を巡るように建てられ、城下からは豪壮な白を仰ぎ見ることができたと推測されます。そして、天明5円(1785)の大火で表門を除いてほぼ全焼すると、本丸には代々の将軍から頂いた朱印状を納めた三階櫓のほかは再建されないまま、明治維新を迎えました。 【感想】 三春駅から歩いて向かうのですが城を示す案内板もなく、登り口も何か所かあるようです。自分は搦手側からの登城となりました。山の中腹部分にも指標はなく、搦手門にい続く道にはなぜかロープが張ってあるため、一度上がって下がることに。 場所を示す指標は、三春城跡概略図の内容とは異なり戦国時代の構成で置かれているので、理解するのに時間が掛ります。 山の中腹部の東側はあまり整備はされてなく、草をかき分けて進むことになります。もう少し案内の指標などが整備されることに期待したい。 |
100名城 スタンプ |
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スタンプ 設置場所 |
・三春城跡 ・三春町歴史民億史料館 |
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登城日 | 一回目:2020年10月1日(木) | |||
LINK | Find!三春〜桜と歴史と文化の城下町〜 | |||
三春町HP〜三春町歴史民俗資料館〜 | ||||
三春城-Wikipedia- | ||||
城主家紋 | 【田村茗荷】 (坂上田村麻呂後裔) 田村氏家紋 |
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【下り藤】 (藤原氏利仁流) 加藤氏家紋(嘉明家) |
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【平四つ目結】 (宇多源氏佐々木氏泰綱流) 松下氏家紋 |
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【檜扇に鷲の羽】 (安倍貞任の後裔か?) 秋田氏家紋 |
※江戸時代の三春城跡概略図(加筆有り) |
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【三分坂】 秋田氏の時代に、近侍・警固の「宿直(とのい)番衆」の屋敷が有り、昼夜を問わない激務のため、手当てが銀三分上乗せされたので、この名が残った。 |
【搦手門跡】 | 【本丸石垣】 |
【本丸石垣】 | 【矢倉跡】 | 【城址碑と説明板】 |
【戦国時代の二之丸跡(江戸時代の本丸下段)】 ※以下( )内は江戸時代の名称 |
【説明板(江戸時代の概略図)】 | 【続日本100名城スタンプ置場】 |
【三階櫓跡】 | 【三階櫓跡からの眺望】 | 【本丸へ続く城道】 |
【本丸跡(本丸上段)】 | 【本丸・大広間跡】 | 【本丸・奥跡】 |
【本丸跡(本丸上段)】 | 【本丸虎口(本丸上段虎口)】 | 【風呂場跡】 |
【本丸(本丸下段)大手側虎口】 | 【本丸(本丸下段)大手側虎口付近】 | 【三之門跡】 |
【町民の森付近に残る石組遺構】 | 【石組遺構付近から見た三之門方面】 | 【町民の森の東側削平地】 |
【城北側太子堂のあった曲輪】 | 【城北側太子堂のあった曲輪】 ここを抜けると搦手門付近に通じている。 |
【揚土門跡】 |
【竪堀跡】 前方の手すりのある部分にある。 |
【竪堀跡】 | 【堀切跡】 |
【東館(三之丸)跡虎口】 | 【東館(三之丸)跡】 | 【駐車場にある愛姫生誕地の碑と説明文】 |
【駐車場にある案内板】 | 【二之門跡】 | 【江戸時代の二の丸虎口跡】 手前の道路は堀切跡。 |
【江戸時代の二の丸跡】 現在は城山公園になっている。 |
【江戸時代の二の丸中段】 | 【江戸時代の二の丸下段】 |
ジャンル:定食・食堂 店名:おかもと食堂 住所:福島県田村郡三春町八島台1-2-2 TEL:0247-62-2316 営業時間:11:00〜18:30 定休日:不定休 お店は古いですが、それだけ地元の方に愛されているのでしょう。ランチ時は人がたくさん入っていました。 注文したのは、福島県の名物でもあるソースカツ丼。 ジューシーなカツに辛めのソースが何とも言えず、最後まで飽きることなく食べることができました。 ラーメンなどいろいろなメニューがあるのでおススメです。 |