城名 | 花巻城(別名:鳥谷ヶ崎城) | |||
住所 | 〒025-0076 岩手県花巻市城内 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 市指定史跡(本丸跡) 市指定有形文化財(円城寺門・時鍾堂) |
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城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 安倍頼時 | |||
築城年 | 1591年 | |||
主な改修者 | 稗貫氏、北信愛、北秀愛、南部氏 | |||
主な城主 | 安倍氏、奥州藤原氏、稗貫氏、北氏、南部氏 | |||
位置 | 北緯39度23分30.38秒 東経141度7分17.5秒 |
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登城日 | 2023年5月2日(火) | |||
LINK | 花巻観光協会HP〜花巻城跡〜 | |||
花巻城-Wikipedia- | ||||
城主家紋 | 【丸に二つ引両】 (藤原北家山蔭流) 稗貫氏家紋 |
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【南部鶴】 (清和源氏南部氏流) 北氏家紋・南部氏家紋 |
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【概要】 この高台一帯が、かつて「島谷ヶ崎城」と呼ばれた古くからの城跡で”往古誰人の始めて築くといふことを伝えず”と「二郡郷村志」に記されている。稗貫氏所領のころ(12〜16世紀)は、ここに瑞興寺(1397年開創)が建っていたという。 天正19年(1591)南部信直(南部家26世)の領有となり、北秀愛(松斉の二男)が郡代として和賀、稗貫の二郡を統治するにあたり瑞興寺を現在地(坂本町)に移し、ここをお城の本丸に整備し、名も「花巻城」と改めた。 北信愛(秀愛の父、後の松斉)が二代目郡代に就任した翌々年(慶長5年(1600))9月、旧領主(和賀氏、稗貫氏)の残党が蜂起したいわゆる「花巻城夜討ち」のときは、一揆軍が御台所前御門まで押し寄せたが、松斉は、少しの兵力でよくこれを防いだ。 松斉の没後、花巻城主となった南部彦九郎政直と岩崎城代、柏山伊勢が寛永元年(1624)12月、共に非業の最後をとげたのもこのお城での出来事である。 以前、愛宕下からお城の下にかけて北上川が流れており、春は桜の花びらが舞い散って大きな渦を巻いたことが、花巻地名の起こりといわれている。しかし、説話の優雅さとはうらはらに、川が度々氾濫して人々を悩まし、またお城の崖が崩れたりしたので、正保年中(1646)小舟渡八幡宮の東の方に北上川の流れを変える工事が起こされた。その後断続して工事が進められ、貞享3年(1686)ようやく完成した。今の川筋がそれである。 このように、数々の歴史を秘めた「花巻城」も明治維新後、城郭としての存在意義を失い明治6年(1673)本丸御殿を始め両御門、菱櫓など一切の建物が取り壊されたが、平成4年、花巻開町四百年を記念して本丸西御門周辺を復元整備した。 (説明板より) 【感想】 こじんまりとした本丸ですが、本丸西御門が復元されているのでよりお城らしく感じることが出来ます。本丸は狭いながらに指標などもきちんとあるため非常に分かりやすいです。ただやたら御がつけられている。 本丸の堀も良く残っています。城下には唯一の現存遺構である円城寺門がります。 |
※花巻城跡 案内図 |
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【城址入口】 | 【早坂御門跡】 二の丸に建立された楼門で参勤交代等の時の公道の門であった。 |
【本丸入口】 |
【城址碑】 | 【鐘楼堂下堀】 | 【長屋跡】 |
【説明板】 | 【復元された本丸西御門】 | 【復元された本丸西御門】 |
【復元された本丸西御門】 | 【復元された本丸西御門】 | 【本丸土塁】 |
【三社跡】 | 【武具蔵跡】 | 【本丸井戸跡】 |
【御台所御門跡】 | 【囲穀蔵前堀跡】 | 【囲穀蔵前堀跡】 |
【鐘楼堂前堀】 | 【鐘楼堂前堀】 | 【菱櫓跡】 |
【菱櫓跡からの眺望】 | 【本丸跡】 | 【本丸跡】 |
【復元された本丸西御門】 | 【初代二所ノ関軍右衛門墓碑】 | 【復元された土塀】 |