城名 松本城(旧名:深志城)(別名:烏城)
住所 〒390-0873
長野県松本市丸の内4-1
入場時間 午前8時30分〜午後5時(入城締切午後4時30分)
ゴールデンウィーク、夏季期間は閉時間を1時間延長
休城日:12月29日〜1月3日
入場料 本丸、天守閣に入る際に必要です。
個人の場合
大人600円、小中学生300円
20人以上99人まで
大人540円、小中学生270円
100人以上299人まで
大人480円、小中学生240円
300人以上
大人420円、小中学生210円
指定文化財 国宝:天守、乾天守、渡櫓、辰巳付櫓、月見櫓
国指定史跡
城郭構造 悌郭式+輪郭式 平城
天守構造 連結式望楼型(1593年頃か1615年築)
複合連結式層塔型5重6階(1633年改)
築城主 小笠原長棟、石川数正・康長父子
築城年 永正元年(1504年)
主な改修者 松平直政
主な城主 小笠原氏、石川氏、松平氏、堀田氏、水野氏、戸田(松平)氏
位置 北緯36度14分20.76秒
東経137度58分8.83秒
【沿革】
松本城は戦国時代の永正年代初めに造られた深志城が始まりです。戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中と言われた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の山麓の林地区に移すと、その家臣らは林城を囲むように、支城を構えて守りを固めました。深志城もこのころ林城の前面を守るため造られたものです。その後甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としました。その後天正10年(1582年)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めました。

豊臣秀吉は天正18年(1590年)に小田原城に北条氏直を下し天下統一をすると、徳川家康を関東に移封しました。このとき小笠原氏は家康にしたがって下総へ移ると、秀吉は石川数正を松本城に封じました。数正・康長父子は、城と城下町の経営に力を尽くし、康長の代には天守三棟(天守・乾小天守・渡櫓)はじめ、御殿・太鼓門・黒門・櫓・塀などを造り、本丸・二の丸をかため、三の丸に武士を集め、また城下町の整備をすすめ、近世城郭としての松本城の基礎を固めました。天守の築造年代は、康長の文禄2年から3年(1593〜4年)と考えられています。

【感想】
松本城碑を通り抜けるとすぐに烏城という別名の通りの漆黒の天守が目に飛び込んできます。
その姿は存在感が強く、水堀によく映えます。
天守は月見櫓も組み込まれ優美さも備える城郭でした。

 

100名城
スタンプ
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設置場所
松本城管理事務所
登城日 2008年8月23日(土)
LINK 松本市公式観光情報ポータルサイト
松本城-Wikipedia
城主家紋 【三階菱】
(清和源氏義光流)
小笠原家家紋
【丸に笹竜胆】
(清和源氏義家流)
石川家家紋

【はなれ六つ星(六曜)】
戸田家家紋

                      

  
探訪
【黒門-二の門(高麗門)】
内堀を渡って二の門(高麗門)をくぐり枡形にはいるとそこに、料金所があります。ニの門(高麗門)と袖塀は1989年(平成元)12月1日に復元されました。
【黒門-一の門(櫓門)】
本丸の正門で、松本藩では本丸御殿が奥書院(黒書院)であり、その入口にあたるので黒門と称したという。この枡形門は一の門(櫓門)とニの門(高麗門)から構成され、明治以降に取り壊されていたものの、一の門は1960年(昭和3)に復興され、二の門と袖塀は1989年(平成元)12月1日に復元され、黒門枡形として蘇りました。
【本丸より天守】
黒門を入ると本丸で、芝生のところは本丸御殿跡です。
写真左から月見櫓、辰巳附櫓、天守、渡櫓、乾小天守になります。
【渡櫓-大手口】
天守への入り口。
休日なので観光客が多いです。特に観光バスの団体が…
【展示品01】
各種火縄銃
【展示品02】
管打式短銃
【展示品03】
鉄砲狭間用の長い火縄銃
【展示品04】
小型の大砲。
松本城の火縄銃関連の展示物は貴重なコレクションで見る価値ありです。
天守最上階】
ここは戦の時、周りの敵の様子を見るところ(望楼)として使われました。天井は井桁梁でがっちりと組まれています。写真は、天井中央に祀られている、二十六夜神という松本城を守る神様です
【六階に登る階段】
天守5階は重臣たちが戦いの作戦会議を開く場所と考えられています。他の階に比べ天井が高く4.5mあり、そのため6階に登るこの階段にだけは踊り場が設けられ、階段が緩やかになっています。
【御座の間】
天守4階。書院造り風のこの部屋は、いざというときには、城主がいるところ(御座所)になりました。天井が高く、四方から光が入ります。柱はすべて桧で、鉋がかけられ、鴨居の上には小壁もあり、丁寧な造りになっています。
【月見櫓】
月見をするための櫓で、北・東・南の舞良戸を外すと、三方が吹き抜けになります。
周りにめぐらされた朱塗りの回縁や舟底形をした天井は、天守・渡櫓・乾小天守には見られない開放的な造りです。
【月見櫓・辰巳付櫓・大天守】
天守の出口である月見櫓下から撮影。
【本丸水門跡】
すぐ右手が月見櫓。
【太鼓門-一之門】
太鼓門枡形は、文禄4年(1595)頃築かれ、門台北石垣に太鼓楼が置かれ、時の合図、登城の合図、火急の合図等の発信源として重要な役割を果たしていました。平成11年に復元。

【太鼓門-二の門(高麗門)】
一の門と合わせて枡形を形成。
【二の丸御殿跡】
本丸御殿焼失後、藩の政庁が二の丸御殿に移され、幕末まで中枢機関とされた。昭和54年から6年間かけて発掘され、史跡公園として整備され、平面復元されました。
【天守南側】
南側内堀越しに。
【天守南西側】
内堀南西側、この角度は写真でよく見かけます。
【埋橋と天守】
埋橋は緊急時に落とされる橋でここからも本丸へ行くことができます。こちらにも料金所があります。
【内堀馬出し跡】




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