城名 | 小諸城(別名:酔月城、白鶴城) | |||
住所 | 〒384-0804 長野県小諸市丁311 |
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入場時間 | 3月中旬〜11月末まで無休開園 午前8時30分〜午後5時00分 (動物園は8時30分〜午後4時30分) (遊園地は9時00分〜午後5時00分) 休日 ・12月〜3月中旬まで毎週水曜日 ・年末年始(12月29日〜1月3日) (遊園地12月1日〜3月中旬) |
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入場料 | ・懐古園内散策・藤村記念館・徴古館・郷土博物館・小山敬三美術館・動物園共通券 ※共通券1枚で上記施設全てご覧いただけます。 大人500円、中学生以下200円 団体(20名以上) 大人400円、中学生以下150円 |
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指定文化財 | 重要文化財2件 | |||
城郭構造 | 平山城(穴城) | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 武田信玄 | |||
築城年 | 天文23年(1554年)、慶長末期(1614〜15年) | |||
主な改修者 | 仙石秀久 | |||
主な城主 | 武田氏、仙石氏、徳川氏、松平氏、青山氏、酒井氏、西尾氏 石川氏、牧野氏 |
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位置 | 北緯36度19分38.41秒 東経138度25分2.09秒 |
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【概要】 小諸城の起こりは、平安時代から鎌倉時代にかけて「源平盛衰記」や「平家物語」に登場する小室太郎光兼(木曽義仲の部将)が現城址の東側に館を築いた。またその後、大井光忠が小室氏の勢力をおさえて鍋蓋城を築きその子光為がさらに出城として乙女坂城、別名白鶴城(二の丸跡)を構えたが、武田信玄の攻略により落城。信玄はこの地が重要であることから山本勘助と馬場美濃守信房に命じて築城したのが、現在の小諸城址で”酔月城”ともいわれている。 その後、織田信長の将滝川一益、徳川家康の将松平十郎康国が城主になった。さらにその後、仙石秀久が城主となって二の丸・黒門・大手門を建て、その子忠政が三の門・足柄門を建て現在の小諸城が完成した。その後、城主は徳川・松平氏など六氏に変り、元禄15年(1702年)、牧野氏になり十代続いた。 この城の特徴は、全国的にも珍しい城下町より低い穴城で、浅間山の火山灰でできているため、水を用いず、崩れやすい断崖が堅固な要塞となっている。 明治4年(1871年)の廃藩置県で役割を終え、明治13年(1880年)に神社を祀り、懐古園と呼ぶようになった。 【感想】 訪れた日は雨、それが逆に趣がある探訪となりました。苔が生え石段は怖かったですが小諸神社裏から天守台へむかう石垣は霧のせいで霞んでいて趣がありました。 また、水の手展望台からの景観は圧巻です。右側は断崖、正面には千曲川が霧の中でもわかりました。 |
100名城 スタンプ |
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スタンプ 設置場所 |
懐古園事務所 | |||
登城日 | 一回目:2008年9月14日(日) 二回目:2012年12月1日(土) |
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LINK | 小諸城址 懐古園オフィシャルHP |
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小諸城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【割菱】(武田菱) (清和源氏義光流) 武田家家紋 |
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【永楽通宝】 仙石家家紋 |
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【丸に三つ柏】 牧野家家紋 |
【三の門】 寄棟造りの二層の城門で、元和元年(1615年)に創建。寛保2年(1742年)の大洪水で流出し、明和2年(1765年)に再建。両壁に矢狭間、鉄砲狭間が付けられた戦闘式な建物で正面にある「懐古園」の大額は徳川家達の筆。国定指定重要文化財。 |
【二の丸石垣】 | 【水櫓跡】 水車を使い川水を揚げ城内各所に給水していたところ。 |
【二の門跡】 | 【二の門跡(内側より)】 |
【二の丸跡】 二の丸への石段。 入口には二層の「二の門」があった所、石段の上が二の丸跡で白鶴城があった。徳川秀忠が上田の真田父子にはばまれて二十数日逗留したため、関ヶ原の合戦に間に合わず、家康に大変叱られたと言われています。 |
【二の丸跡】 |
【大手道】 二の丸から黒門跡まで伸びる大手道。 |
【番所跡】 ここに鉄砲や弓が立てかけられていました。 |
【中仕切り門跡】 | 【北丸跡】 ここは隠居所になっていた。現在は小諸懐古射院(弓道場)になっています。 |
【鶯石】 城主の通行や祝い事の度に「うぐいす」のい鳴き声をたてたと言われています。 |
【南丸跡】 武器庫などがあった場所。 |
【紅葉谷】 本丸とを区切る堀切(空堀)。 |
【黒門橋】 この下は空堀になっています。 |
【黒門跡】 一の門が建っていた所。 |
【お駕籠台跡】 |
【懐古神社】 |
【本丸跡】 全国でも数少ない自然石の野面積の石垣の苔が印象的。懐古園の碑は明治14年(1881年)に懐古園が造られた時の記念碑で、題字は勝海舟の筆。 |
【鏡石】 山本勘助晴幸が常に愛用したと伝えられています。また、隕石とも言われています。 |
【天主台】 三層の天守閣があったが、寛永3年(1626年)に落雷で焼失。その後は徳川の政策により再建されなかったと言われています。 |
【天守閣跡】 | 【本丸石垣】 本丸を囲む石垣で天守台へと続き、よく見るとここで折れが作られている。 ここも一応算木積みになっている。 |
【天守台】 |
【荒神井戸】 寛保の大洪水後に掘られたもので、城中唯一の井戸。 |
【武器庫】 当時のままに復元されています。 |
【水の手展望台と地獄谷】 この谷の深さが天然の要害。 |
【水の手展望台と不開門】 不開の門跡があり、石段の上が展望台となっています。 |
【水の手不開御門跡】 小諸城の背面にある搦手にあり、左右の石積みの間には間口九尺(2.7m)の門がありました。屋根の上は通路になっていて、その先端には見張り役がいた曲輪がありました。ちょうど展望台がそれになると思われる。 |
【水の手展望台からの眺望)】 眼下に千曲川が見られます。 このときは霧がありかえって幻想的な風景になってました。 |
【水の手展望台からの眺望)】 晴れているとこんな感じに見えます。 |
【横堀】 小諸城西側(千曲川側)に掘られた堀。 |
【馬場】 往復するだけの鉄砲馬場といわれ、桜の名所になっています。 |
【富士見台】 天気が良い日に富士山が眺望できることから名付けられました。 行った日は残念ながら雨で霧が視界を遮っていました。 |
【木谷】 木谷にかかった吊り橋を渡ると昔籾蔵があった籾倉台と呼ばれる。現在は動物園になっている。 |
【大手門ー正面】(重要文化財) 小諸城と線路を挟んで反対側にあります。 |
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【大手門ー裏面】(重要文化財) | − | − |