城名 | 小田原城(別名:小峯城、小早川城) | |||
住所 | 〒250-0014 神奈川県小田原市城内6-1 |
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入場時間 | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) ※6〜8月の土日・祝日は午後6時まで (入館は午後5時30分まで) 休館日:1月1日、12月10日、12月31日 |
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入場料 | (個人) ・一般 400円 ・小中学生 150円 (団体)<30人以上> ・一般 320円 ・小中学生 120円 |
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指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | 複合式層塔型3重4階(1633年 築)(1706年 再) (1960年 鉄筋コンクリート造復興) |
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築城主 | 大森頼春 | |||
築城年 | 応永24年(1417) | |||
主な改修者 | 上杉氏、北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝 | |||
主な城主 | 後北条氏、阿部氏、稲葉氏、大久保氏 | |||
位置 | 北緯35度15分3.77秒 東経139度9分12.39秒 |
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【沿革】 室町時代に大森氏の築いた山城が前身で、その後戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に整備拡張され、豊臣氏の来攻に備えた城下を囲む大外郭の出現に至って城の規模は最大に達し、前例を見ない巨城に発展した。(総構) 小田原北条氏滅亡後は徳川氏の譜代大名大久保氏が城主となり、江戸時代になると三の丸以内に規模が縮小されたが、稲葉氏の時代に行われた大規模な工事によって近世城郭として生まれ変わった。 次いで大久保氏が再び城主となり、東海道をおさえ箱根をひかえた関東地方防御の要として幕末に至った。 小田原城は明治3年に廃城の方針がだされ、城内の主な建物は解体された。 城址は国の史跡に指定され「城址公園」として、現在も様々な整備が続けられている。 【感想】 枡形馬出門も復元され徳川時代の遺構が復元されてきましたが、後北条時代の城郭である東曲輪も復元作業が進められています。 大久保時代も広大な総構を引き継いでいましたが、なんといっても後北条時代の遺構が残る八幡山は見ごたえがあります。特にあの大堀切は見る価値が十分にあります。 幅、深さもそうですが長さも結構あり、抜けた時に眼前に石垣山一夜城址が飛び込んできます。ここの景色は絶景です。 |
100名城 スタンプ |
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スタンプ 設置場所 |
天守閣1階 | |||
登城日 | 一回目:2008年5月5日 二回目:2009年4月4日 三回目:2011年1月22日 四回目:2021年11月21日 |
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LINK | 小田原市HP |
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小田原城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【二つ巴】 (藤原北家伊周流) 大森家家紋 |
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【三つ鱗】 (伊勢平氏流) 後北条家家紋 |
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【上り藤に大文字】 (藤原北家宇都宮氏流) 大久保家家紋 |
【天守閣】 小田原駅より |
【幸田口門跡】 城に向かう途中にあります。 |
【幸田口門跡の三の丸土塁】 | |||
【ニの丸堀と学橋】 学橋は三の丸と二の丸を繋ぐ橋ですが、江戸時代にはなかった橋で観光用の橋 |
【学橋】 | 【ニの丸隅櫓と馬出門】 ニの丸隅櫓の奥に見えるのが復元された馬出門。 |
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【復元中の枡形馬出門】 一回目の来訪のときは復元の最中で向こう側には入ることができなかった。 |
【ニの丸隅櫓】 この隅櫓は、城主の居館(御殿)があったニの丸主部の南東の隅に位置し、堀を挟んだ向こう側、三の丸にあった大手門の真後ろを見渡せました。櫓の内部には武器が格納され、有事の際にはここから城下を展望し、敵が攻めてきた場合には矢や鉄砲を放つようになっていました。 |
【ニの丸隅櫓】 ニの丸内より |
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【大手門跡に建つ鐘楼】 時を知らせる「土岐の鐘」は、長い間、昼夜を隔てなくしてつかれていた。この鐘は初め浜手御門のところにあったのを2度目の移築により大正年間にこの場所に移された。現在も朝夕6時に時を知らせている。石垣は旧大手門のものを使用。 |
【馬出門】 ニの丸正面に位置する重要な門で、江戸時代初期のころからこの場所に存在したと考えられます。(H21年復元) |
【馬出門枡形】 馬出門(左側)と内冠木門の二つの門と周囲を土塀で囲まれた範囲をいいます。二つの門は控柱にそれぞれ屋根が付く「高麗門形式」の門です。 |
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【銅門枡形】 馬出門枡形を抜け馬屋曲輪を二の丸方面へ向かう場所にあります。 |
【住吉橋と内仕切門】 |
【銅門枡形】 渡櫓門と内仕切門と土塀で周囲を囲む枡形門。渡理櫓門にはその名の由来となった銅板の装飾が映えます(H9年復元) |
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【銅門】 ニの丸内より |
【ニの丸】 城主の居館(御殿)のあった場所、現在は二の丸広場となっておりイベントの際はここで行われる。 この日も骨董市と小田原おでんサミット2009が行われていました。 |
【常盤木橋と本丸堀】 江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいました。この絵図によると、堀は二の丸掘とつながる水掘となっています。発掘調査によってこの本丸東掘の位置が確認され、最も幅があるところでは20m以上もあることが分かりました。そこで、植木と盛り土により堀の形を表現し、整備しました。この堀を渡るために架けられていたのが常盤木橋で、水鳥の池は掘の名残と言えます。 |
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【常盤木橋と本丸堀】 | 【常盤木門】 本丸の正門にあたり、最も大きく堅固に造られていました。周囲の多聞櫓と渡櫓を配した枡形門の構造を持ち、そばにある巨松になぞらえてその名が付けられと言われています。(昭和46年復興) |
【天守閣】 江戸時代に造られた雛型や引き図を基に昭和35年に復興されました。3重4階の天守に付櫓、渡櫓を付しています。なお、最上階の廻縁・高欄は復興に際して新たに付けられたものです。 |
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【天守登閣口】 | 【天守登閣口 | 【本丸】 天守最上階からの眺望 |
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【相模湾】 天守最上階より南方面眺望 |
【石垣山一夜城址】 天守最上階より南西方面眺望 |
【後北条時代小田原城址】 天守最上階より北東方面眺望。 後北条時代の小田原城址がある八幡山には小田原高校がある。 |
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【後北条時代の東曲輪】 天守最上階より東方面眺望 |
【本丸登閣口石垣】 | 【小峯曲輪北堀】 報徳二宮神社は、後北条時代に造成された古い曲輪に当たります。江戸時代前期は雷曲輪、後期には小峯曲輪と呼ばれていました。この空堀は本丸と御峯曲輪を分断する堀になります。堀幅は約21m、深さは現状で約5m、昔は7,8mと考えられます。 往時堀底には、堀障子と呼ばれる畝状の仕切りが設けられていたと考えられます。 |
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【小峯橋(御茶壷橋)】 江戸時代箱根口門から入城すると、この小峯城を渡り、次に住吉橋を渡って内部に入ることができます。宇治から将軍家に茶を献上する際に御茶壷蔵から御茶壷がこの橋を往復したことに因んで、御茶壷橋と呼ばれるようになった。 |
【御茶壷曲輪の三の丸土塁】 小田原城南側の曲輪 |
【箱根口門跡】 小田原城の三の丸の入口、大手口・幸田口・箱根口があり、それぞれ大手門・幸田口門・箱根口門を設けてあった。そのうちの箱根口門跡で三の丸小学校の脇にある。 |
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【弁財天曲輪跡】 江戸時代初期、この地を「弁財天曲輪」と呼んでいた。しかし元禄十年(1697)に蓮池の南側にあった「評定曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、ここを単に「弁財天」と呼ぶようになった。幕末にはこの地に6,7軒程の中堅藩士屋敷があった。 |
【天守閣】 青橋付近より見た天守閣 |
【元蔵堀跡】 ニの丸外郭のさらに外側に東西1,350m、南北800mの範囲に堀と土塁を巡らす三の丸外郭を構築しました。ここは元蔵と呼ばれる曲輪を囲っていた堀であるため、元蔵堀と呼ばれています。 調査の結果堀の幅は4〜8m、深さは3〜4mで2ヶ所の横矢掛と9ヶ所の堀障子が確認されています。 |
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【御用米曲輪跡】 本丸の北側に位置する曲輪。この曲輪は、外周を土塁と堀で囲われており、出入りは二の丸から相生橋を渡って入るか、本丸側から黒鉄門坂を下って入るしかない閉ざされた曲輪で江戸代初めより幕府天領などから納められた米を保管する蔵が置かれた重要な場所でした。 |
【御用米曲輪跡】 | − |
【八幡曲輪】 この地は、古くは「裏大門」と呼ばれたところで、「八幡曲輪」の地名は、武家屋敷地としての名である。東西に延びる坂道の西側には藩の中堅武士の屋敷があり、江戸時代を通じて五軒の住まいがあった。幕末にはこの地名は、単に「八幡山」とも呼ばれるようになった。 |
【八幡曲輪】 この坂に屋敷があった。 |
【八幡山】 この地には、二つの八幡社があった。その一つは、北条氏が鎌倉八幡宮から勧請(かんじょう:神仏の分身を他に移す)したといわれ、江戸時代には、「元宮」または、「本丸八幡」と呼ばれた。もう一つは江戸初期小田原城主大久保忠世が祀ったもので、「新御宮」または、「若宮八幡」とも呼ばれた。地名はこのように二つの八幡社にちなんだものである。 |
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【鍛冶曲輪】 鍛冶曲輪は丘陵地に位置し、小田原北条氏時代の小田原城の重要な曲輪であったと考えられる。この地は早くからこの地名があったが、江戸時代前期の寛文2年(1662)小田原城主稲葉正則に召抱えられた刀工藤原清平も移り住んだといわれ、「相州八幡山佳藤原清平」の銘がある刀剣も残っている。 |
【鍛冶曲輪】 現在はテニスコートになっている。 |
【毒榎平】 この地の西端に残る巨大な土塁と空堀は、小田原城の三の丸外郭の遺構で小田原北条時代後期に築造されたものである。この遺構は豊臣秀吉の小田原攻めに備えた大外郭成立以前の小田原城の最西端に当たる重要な場所であった。毒榎は植物の油桐のことであるが、ここで栽培されたという記録は残されていない。 |
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【毒榎平】 いまは、慰霊塔が建っており、春には花見会場になっている。 |
【小峯御鐘ノ台大堀切東堀】 小田原城総曲輪は、おそらく小田原北条氏三代氏康の永録年間頃から作り始められ、上杉謙信、武田信玄による再度の来攻の経験などにより次第に拡大され、五代氏直の時、豊臣秀吉の小田原陣が始まる直前の天正18年(1590)早春に完成したものと思われる。 現在ここに見られる空堀遺構は、小田原城中にある三丘陵即ち、谷津丘陵、八幡山丘陵、天神山丘陵の分岐点であり、小田原城にとって最も重要な所と思われる。この空堀、土塁は、小田原城の残存遺構の中で最大のものである。 |
【小峯御鐘ノ台大堀切東堀ー矢折れ】 東堀は、幅約25〜30m、深さは堀底から土塁の上面(天端)まで約12〜15mあり、堀の法面は50〜60度という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模のものといえます。 発掘調査によると、堀には堀障子や土橋状の堀り残し部分のほか、横矢折れと呼ばれるクランク部分などが設けられていることが確認されました。こうした堀の構造は北条氏が積極的に用いたもので、戦国時代の小田原城の特色をよく表しています。 |
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【御鐘ノ台】 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに備え、小田原北条氏が小田原城大外郭を設けた時、この地は城域に取り入れられた。小田原城の西端に当たり、中世の城郭遺構が最も良く残っているところである。地名の由来は、小田原攻めの時、この地に陣鐘が起れていたためといわれている。 |
【御前曲輪】 この地は、今も底の広い窪地で、以前は土塁や空堀を持つ城郭であった。この一角から中世の祭祀遺構と考えられる敷石遺構が発掘され、現在も保存されている。城郭でいう御前曲輪とは、一般例では城内で神仏をまつる場所である。なお、この曲輪には「人質曲輪」という別称もあった。 |
【御前曲輪】 現在は立派な城山陸上競技場になっている。 |
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【八幡山古郭東曲輪】 八幡山の東端にあたる曲輪で現在復元作業が行われている。 |
【八幡山古郭東曲輪】 | 【北条早雲像】 小田原駅西口ロータリー内にある。 |
【総構北側山ノ神尾根筋-城源寺縦堀】 この場所は、城下張出の東側を巡る空堀が位置した場所です。現在でも雛壇状に東側へ下がっていく掘りの様子が確認できます。 |
【総構北側山ノ神尾根筋-城源寺縦堀】 上側より撮影。 |
【総構北側山ノ神尾根筋-城下張出】 | |
【総構北側山ノ神尾根筋-城下張出平場】 この付近には、小田原城総構から張り出す形で平場が造られていました。総構から張り出されることにより「横矢掛り」の効果を生んでいます。 |
【総構北側山ノ神尾根筋-障子堀跡】 平場の道を挟んで反対側に位置する茶畑は、堀跡で障子堀になっていたと考えられる。 |
【総構北側山ノ神尾根筋-障子堀跡】 左の茶畑の反対側より撮影。 |
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【総構北側山ノ神尾根筋-山ノ神堀切】 この場所には、谷津丘陵を横断する堀切がありました。この堀切により谷津丘陵は東西に分断され、それぞれ独立させる効果を持っていたと考えられます。 |
【総構北側山ノ神尾根筋-山ノ神堀切】 |
【総構北側山ノ神尾根筋-山ノ神堀切下の障子堀跡】 障子堀跡があり掻揚げ土塁も綺麗に残る。 |
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【総構北側山ノ神尾根筋-稲荷森】 この付近には、小田原城総構を構成する空堀の様子が良く残されています。総構の堀が谷津丘陵の地形に沿って巡らされている様子が良く理解できます。 |
【八幡山尾根筋-小峯御鐘ノ台大堀切東堀】 | 【八幡山尾根筋-小峯御鐘ノ台大堀切東堀と中堀の合流点】 |
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【八幡山尾根筋-小峯御鐘ノ台大堀切東堀横矢折れ】 堀底を人が歩くとこの堀切の規模が分かります。 |
【八幡山尾根筋-小峯御鐘ノ台大堀切西堀】 この場所には、箱根外輪山から続く尾根筋を断ち切るように築かれた三本の堀切(小峯御鐘ノ台大堀切)のうち、一番西側の堀がありました。現在はその大半が埋められていますが、北側には空堀と土塁が良好に残っています。 |
【八幡山尾根筋-小峯御鐘ノ台大堀切中堀】 | |
【八幡山尾根筋-小峯御鐘ノ台大堀切中堀と東堀の合流点】 |
【八幡山尾根筋-八幡山大堀切跡】 現在は道路からこの駐車場の2本の木の間を通っていた尾根筋を横断する大堀切がありました。 |
【藤原平の三味線堀跡】 現在は小田原高校内になり、ここの堀も全て障子堀だったと考えられる。 |
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【本曲輪跡】 小田原高の弓道場の奥にある小高い場所が、後北条時代の本曲輪になる。 |
【西曲輪跡】 現在は小田原高校のグランドになっている。 |
【整備された東曲輪】 | |
【北条氏政・氏照の墓所】 旧伝心庵のあった場所。今は寺院は移転し墓所だけが街角にある。 |
【北条氏政・氏照・氏政夫人の墓所】 中央小さい墓石の左側:氏照、右側:氏政、一番右の大きな墓石が氏政夫人になる。 |
【生害石】 墓石前の平らな石の上で氏政、氏照が自刃したと伝えられる。 |
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【小田原城総構・早川口遺構】 早川口は、「二重外張」と呼ばれる、土塁と堀を二重にして防御を固めた場所です。 |
【小田原城惣構・早川口遺構】 | 【小田原城惣構・早川口遺構】 |
ジャンル:そば 店名:そば処 田毎(たごと) 住所:神奈川県小田原市本町1-6-20 TEL:0465-24-3030 営業時間:11:00〜18:00(そばが売切れ次第閉店) 定休日:木曜日(祝日の場合は前日) 写真は田毎そば 大盛 \1,050-(普通盛は\900-) 大根おろしとたっぷりの擦りごまの入った器につけ汁を注ぎ食べます。ゴマの風味と大根おろしの辛みがあいまっておいしいですよ。 そば単体でも香りも良く、腰もあるので盛そばでもおいしそうです。 カレーせいろ何ってものもありました。 |
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ジャンル:そば 店名:箱根暁庵 住所:神奈川県小田原市城山1-1-1 小田原駅西口構内 TEL: 0465-20-1126 営業時間:11:00〜22:00 21:30 (L.O) 定休日:無休 蕎麦屋なのに小田原おでんが食べれるってことで入ってみました。 写真はおでん定食 \900- 小田原おでんって初めてだったのですが何が特徴なのかよくわからないまま食べていたのですが流石に蒲鉾など練物が美味しい小田原、具の練物はふにゃふにゃではなくしっかりした歯ごたえがあり美味しかったです。 しかし、驚いたことにこのおでんの中に梅干しが…練物だと思って口にしたから焦った^^; でも、なんとさっぱりした味なんでしょう〜驚きの味でしたが梅干しはやはり梅干しですw 上品な一品でした^^ |
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ジャンル:かまぼこ 店名:鈴松蒲鉾店 住所:神奈川県小小田原市本町3-11-26 TEL: 0120-14-1222 営業時間:9:00〜16:00 定休日:土曜日 写真左の左:小田原焼(カップ) ¥200- 写真左の右:ウズラの卵を蒲鉾で包んだもの 写真右:小田原焼 \600- 一昔前は「かまぼこケーキ」という名前だったみたいですが「小田原焼」となっています。 ここのオリジナル商品のようで、 かまぼこ屋さんの焼き菓子として登場してから10年、クリームチーズと卵を練りこんだスイーツのようなおいしさをお試しあれ! |