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城名 江戸城(別名:千代田城)
住所 〒100-001
東京都千代田区千代田
入場時間 3月1日〜4月14日:午後9時〜午後4時30分
4月15日〜8月末日:午後9時〜午後5時
9月1日〜10月末日:午前9時〜午後4時30分
11月1日〜2月末日:午前9時〜午後4時
入園は終了時間の30分前まで
入退場所は、大手門・平川門・北桔橋門です。
休園日:月・金(祝日の場合は除き、月曜が祝日の場合火曜日が休園)、12月28日〜1月3日
入場料 無料
指定文化財 国の重要文化財(桜田門、田安門、清水門)
城郭構造 輪郭式平山城
天守構造 層塔型(非現存)
築城主 太田道灌
築城年 長禄元年(1457年)
主な改修者 徳川家康、秀忠、家光(江戸期)
宮内省・宮内庁(明治以降)
主な城主 太田氏、後北条氏(戦国期)
徳川将軍家(江戸期)
天皇家(明治以降)
位置 北緯35度41分17.97秒
東経139度45分15.72秒
地図 伏見櫓
富士見櫓
田安門枡形
清水門枡形
大手門枡形
100名城
スタンプ

【沿革】
江戸城は長禄元年(1457年)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590年)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。
以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北ノ丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。
明治維新後江戸城は皇居となり、昭和24年に西の丸が下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。
この江戸城址は、三百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模は我が国随一のものであることから、昭和38年5月30日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。

石垣一つをとってもほかに類を見ない大きな石が使用され、見て回るだけでも大変なくらい広い。
行く度になにか発見があり、四季折々の自然を楽しむにも最適な場所です。

【感想】
皇居なので入れないんじゃないかと思っていたのですが、入れないのは一部で本丸まで行くことが可能です。行ってみるとその広大さには驚きます。そしてしっかりと石垣や門、櫓が残っています。
天守こそ復元はされていませんが天守台の大きさは圧巻です。
見て回るのには1日はゆうにかかります。
半蔵門へは地下鉄で移動しちゃいました。

スタンプ
設置場所
楠公休憩所、和田倉休憩所、北の丸休憩所
登城日 初 回:2008年11月29日(土)
2回目:2008年11月30日(日)
3回目:2009年11月28日(土)
4回目:2014年4月4日(金)
LINK 宮内庁-皇居東御苑の公開要領
千代田区観光協会HP
江戸城-Wikipedia
城主家紋 【太田桔梗】
(清和源氏頼光流)
岩槻太田家家紋
【徳川葵】
徳川家家紋
庭園 国指定 特別名勝
特別史跡 特別名勝
特別史跡 特別名勝

                      

探訪
【田安門〜高麗門】(国指定重要文化財)
大田道灌時代、江戸城の合戦場はこのあたりであったといわれています。田安門は、寛永13年(1636)に建てられたと考えられ、昭和38年には解体修理が行われました。北面する高麗門とその西側に直交する渡櫓門からなる枡形門です。
【田安門〜高麗門】
枡形内より
【田安門枡形内部】
左側がニ之門である渡櫓門、右手が一之門の高麗門。
通常増形の角に来ても両方を撮ることは広角レンズが必要なくらい狭いのですが江戸城は、通常のカメラで撮れるので枡形内がいかに広いかがわかります。
【田安門〜渡櫓門】
枡形内より
ここを通り抜ければ右手に日本武道館が見えてきます。
【田安門〜渡櫓門】
北の丸側より
【清水門】(国指定重要文化財)
寛永元年(1624)助役大名,浅野長晟により建てられた枡形門です。
【竹橋と帯曲輪】
帯曲輪(写真左側)は、平川門から竹橋門跡(写真正面)に向けて長く伸びており、平川濠と天神濠に挟まれた通路はコの字に折れ曲がり、複雑な構造になっています。
【平川橋】
平川門の前に架かる橋で欄干の擬宝珠は、昔の二重橋にあったものを移したともいわれ、慶長(築城時)と寛文の銘がある。江戸時代の木橋の面影を伝える橋です。
【平川門〜高麗門】
皇居東御苑入退箇所の一つ。
【平川門〜渡櫓門】
枡形内より。門の石垣は亀甲状の切石。
枡形の内壁には、銃眼にのぼる十段の狭い石段があります。
また、平川門は、奥女中の通用門であったことから「お局門」とも呼ばれたようです。
【帯曲輪門(不浄門)】
石段の陰で見えずらいですが、城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたので「不浄門」といわれています。
いきたままこの門から出たのは浅野内匠頭と絵島だけといわれますが、実際にはもっと多くの者が出されたようです。
【天神濠】
【乾門】
皇居の通用門で皇居の乾の方角にあるのでこの名があります。
【北桔橋門】
皇居東御苑入退箇所の一つ。
この辺りは道灌時代、城の大手であったといわれている。また、江戸時代には、天守閣の北の本丸大奥から外部に通ずる門であり、重要地点にあることから、濠を深くして石垣を最も堅固雄大にしてあり、また、橋も跳ね上げる仕掛けにしてあったのである。通常は跳ね上げたままで、大奥の出入りは平川門からでした。
今は高麗門しかないがかつては渡櫓門と岩岐多聞、乾二重櫓に囲まれたL字型のいかめしい内枡形でした。
【乾濠】
北桔橋門手前右側。
正面は吹上御所になります。
【平川濠】
北桔橋門手前左側。
石垣の高さに圧巻です。
【天守台】
【天守台】
この規模の天守台の上に天守が建っていたのを想像するとその大きさは日本最大のものになります。
【天守台】
江戸城天守閣は、三回建てられた歴史を持っています。明暦3年(1657年)の大火で天守閣が焼失した後、四度目の築城の準備に取りかかったが、幕府の重臣で四代目将軍家綱の叔父にあたる保科正之が天守閣よりも城下の復興を優先させるためと提言したことにより、江戸城に蓄えられた金銀は城下の復興に使われたという。それ以後ここに天守閣は建っていません。
【金銘水】
この金銘水は江戸城天守台前の小天守にあり、今も満々と水をたたえている。深さは約10m。すぐ北の乾濠の水面までは約20mなので、かなりの高みまで水が上がってきています。
どんな日照りでも枯れないといいます。
【天守台上部】
【大奥跡】
今は辺り一面芝生だがここにびっしりと御奥御殿の殿舎が立ち並んでいたことを想像すると、その規模の大きさがわかる。
この壮大な空間に御台所を筆頭に、年寄、上臈(じょうろう)など奥女中が数百人、総勢3000人もの女性ばかりの世界ででした。
【大奥跡】 【汐見坂】
汐見坂門跡。
江戸築城の頃は、東京駅や日本橋は海でした。
坂からは日比谷入江が見えていました。
【白鳥濠】
汐見坂より。
本丸と二の丸の間に残った唯一の濠で、他は二の丸の拡張工事の際に埋め立てられました。
【二の丸】
展望台より。

目の前の林は、二の丸雑木林。
【本丸〜午砲台跡】
午砲(ドン)とは、明治4年(1871年)9月、正しい時刻を知らせるために設置された午砲台のことです。昭和4年(1929年)4月1日に廃止されるまでの58年間、「ドン」の愛称で東京府民に親しまれていました。
【石室】
大奥御主殿・御納戸の脇にあるため非常時に大奥の調度品や文書類など、貴重品を納めた富士見御宝蔵の跡と考えられています。
【富士見多聞(御休息所前多聞)】
多聞は、防衛と装飾を兼ねた長屋造りの櫓の一種で武器庫である。中には鉄砲や弓矢が納められていました。江戸城本丸には15棟の多聞があったが、富士見多聞はその中の唯一の遺構です。
【松之大廊下跡】
本丸の西側、富士見櫓と富士見多聞の間にあります。
江戸城本丸と大広間と白書院(将軍との対面所)をつないだ松の大廊下です。松の廊下は、江戸城でも二番目に長い廊下だったといわれ、西へ約19m、北へ約31m、幅は約5mの畳敷きでした。障壁画に「マツ」を主題にした絵が描かれていたことから「松の大廊下」とよばれています。ここで起きた「松の廊下事件」は有名。
【富士見櫓】
本丸に現存する唯一の櫓。遺構の中で最も古いものに属するといわれています。
総白漆喰の大壁。長押型を二条に塗り出し、石垣と濠に面した外壁の中央に様々な形式の「張出」をつけ、「石落とし」を兼ねた三重櫓は、どこから見ても同じに見えることから「八方正面の櫓」と呼ばれる立派なものです。
【中雀門跡】
書院門ともいわれました。写真右手の石垣には重箱櫓と書院二重櫓があり、本丸に上がる人々を圧倒しました。
【中雀門礎石】
両脇の石垣はボロボロで稲妻状の裂け目、円形の割れ目、あるいは人面に変形し、しかも真っ黒に焼けています。文久3年(1863年)、本丸御殿が焼けた時に類焼した痕と考えられます。
【大番所】
大番所は他の番所よりも格上で、位の高い与力、同心が詰めていました。
【中之門跡】
足下には、門柱跡の丸い穴が穿たれた石が四つ並び、本の門下には江戸時代のままという貴重な石畳「土専(せん)」が敷かれています。
【百人番所】
大手三の門の上の護り。江戸城本丸御殿の最後の固めで、最大の検問所として睨みを利かせていました。
鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組の四組が交代で詰めていた。各組とも与力20人、同心100人が配属され、昼夜を問わず警護にあたっていました。
南北約50mの長大な建物。
【皇居正門石橋旧飾電燈】 【諏訪の茶屋】
様式は数寄屋風の書院茶室である。外観は切妻の棟から二つの入母屋の棟を突出させてやや複雑な形を呈しています。

【諏訪の茶屋と紅葉】
【二の丸庭園】 【二の丸庭園と二の丸雑木林】 【二の丸庭園〜竹林】
【同心番所】
大手三の門(大手下乗門)を警護する与力、同心が詰めていた。ここを駕籠に乗ったまま通ることができたのは、尾張、紀伊、水戸の御三家だけで、それ以外の大名は降ろされ検問を受けました。
【三の丸尚蔵館】
皇室に受け継がれてきた、絵画、書、工芸品などの美術品600点余りを国に寄贈されたの機に、これらの美術品を大切に保存管理するとともに、調査・研究を行い、展示により一般公開することを目的に平成4年(1992年)に建設されました。
【大手門〜渡櫓門】
【大手門〜渡櫓門】 【旧大手門渡櫓の鯱】 【大手門】
皇居東御苑入退箇所の一つ。
旧江戸城の正門で、諸大名はこの門から登城しました。
【夕暮れ時の巽櫓(二重櫓)】 【巽櫓(二重櫓)】
現存する三基の櫓の一つ。
【桔梗門(内桜田門)】
皇居参拝者や勤労奉仕の人達が出入りする門で、ここを入った一郭が三の丸です。
一説にこの門の瓦に太田道灌の家紋の桔梗がついていたというので桔梗門の名が生まれたといいます。
【和田倉橋】 【和田倉濠と石垣】 【和田倉門跡】
江戸城守衛のための内郭門の一つ。和田倉橋を渡ったここには枡形石垣があり橋と一体で門を形成していました。
【坂下門】
宮内庁の正面にある門。枡形であったものが、明治21年、明治宮殿造営にあたり、高麗門を撤去し、北向きの渡櫓門を東向きにかえて現在の形になりました。
【正門】
江戸城西の丸大手門が皇居正門になっているわけですが、もともとこの門のすぐ前に高麗門があって一種の枡形をつくっていた。明治21年の明治宮殿造営の際に高麗門は撤去され、現在の渡櫓門のみになり、名称も正門になりました。
【伏見櫓】
この二重櫓は、江戸時代の西の丸の殿舎の西南に建てられたもので、左右には、かなり大きな多聞も残っている。
江戸城築城の第二期(三代将軍家光の時)の寛永5年(1628年)に京都伏見城から移築したものと伝えられます。
【二重橋】
二重橋の名前は、この奥の木橋が架けられた部分の濠が深く、橋桁を二重に組んであったため。
現在宮内庁の使用している名称は「正門石橋」・「正門鉄橋」となっているが、この二つの橋を総称して二重橋と通称しています。
【桜田門〜渡櫓門】
【桜田門〜枡形内部】
【桜田門〜高麗門】
万延元年(1860年)、井伊大老が水戸藩浪士の手にかかって暗殺されたのがこの門外です。
桔梗門(内桜田門)に対して外桜田門とも呼ばれている。
【桜田濠と鉢巻土居】
桜田門を正面に見て左手
【凱旋濠と石垣】
桜田門を正面に見て右手
【楠正成像】 【日比谷濠】 【馬場先門跡】
【半蔵門】
元和6年(1620年)の築造がこの門の始まりで、明治4年に渡櫓門は撤去され、現在は高麗門だけになっています。
この場所は昔甲州街道の起点で四谷見附とともに江戸城の要衝の一つでした。
【三宅坂付近の濠】
この付近の石垣は、いわゆる鉢巻土居で、濠から上は芝土居になっていて、その土居の上にやや低めの石垣が築かれています。
【真田堀】
江戸城外堀、堀底に丸ノ内線四ツ谷駅やテニスコートがある。
【弁慶堀】
江戸城外堀、真田堀と道を挟んで反対側にある。
【食違い見附】 【赤坂見附の石垣】
乾通り一般公開-2014.4.4(金)-
【坂下門】 【富士見櫓】 【蓮池濠と本丸石垣】
【蓮池濠と本丸石垣】 【富士見多聞】 【富士見多聞】
【宮内庁側門】 【宮内庁側蔵?】 【下道灌濠】
【西桔橋】 【乾濠】 【蓮池濠】
【西桔橋】 【本丸の二段石垣】 【本丸の二段石垣】
観光〜東大(旧加賀屋敷(前田邸)跡)
【東大の銀杏並木】 【帝国大学時代のマンホール】 【東大の一角】
【安田講堂】 【三四郎池】 【三四郎池】
【御門番所】 【赤門のハート】 【赤門(旧加賀屋敷御守殿門)】




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