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城名 | 二条城 | ||
住所 | 〒322-0606 栃木県栃木市西方町本城 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 環郭式平山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 藤田重信(信吉) | |||
築城年 | 慶長年間(関ヶ原合戦後まもなく) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 藤田重信 | |||
位置 | 北緯36度28分18秒 東経139度43分31秒 |
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地図 | 1 | 主郭 | ||
2 | 石垣跡 | |||
3 | 土塁 | |||
4 | 竪堀 | |||
5 | − | |||
【歴史・沿革】 二条城は、関ヶ原合戦後に徳川氏の家臣となった藤田能登守信吉(西方入封後重信と改名)が、下野国西方の地に一万五千石(下野・西方藩)を与えられ、西方城の築かれた城山東麓の、比高55m程の丘陵上に築かれた近世城郭の平山城である。 城域中央に方形に近い形状の主郭を置き、周囲に二ノ郭等の曲輪群を廻らした環郭式の縄張りである。 徳川の家臣になってからは、佐竹氏が秋田へ国替えになった際には、水戸城を守備し水戸に残っていた反対派を捕らえるなど名を残した。 この頃になると10年以上戦乱がなく、藤田重信(藤田信吉)のような実戦経験豊かな武将は貴重な存在となっており、慶長20年(1615)大坂夏の陣では当時25歳前後だった榊原康勝勢の軍監を命じられた。 しかし、軍勢を戦に参加させず真田幸村の猛攻を受けた責めを負い、信濃に蟄居。(藤田信吉に恨みを持つ上杉などの陰謀もあったとされる。) そして、失意のまま翌年慶長21年(1616)7月14日、信濃は木曽の奈良井で没する。享年58歳。嗣子はなかったとされ除封となり下野・西方藩も1代で廃藩。藤田家は断絶した。 大坂夏の陣で戦傷を負ったのが死因とも言われるが、一説には、大坂の陣の戦功評議の場での失言を咎められた事を悩んだとも言われ、近年では自殺説が有力である。 信吉の墓は近くの実相寺にある。 【感想】 西方城のすぐ近くにあるのですが、民家の間の道を入っていき東北道の下をくぐって行くので分かりづらい。砂防堰の脇から開山不動尊へ。そこを経由して行くと竪堀の所に二条城と書かれた立て札がある。ここから登場となるが、城域は春先だというのに薮化がすごく、城道がわからないその為土塁を直登し石垣を見た時は感動でした。 ただ、主郭部は藪が凄いので入るのをためらう。土塁の反対側には虎口があるようだが見ることは出来なかった。 |
登城日 | 2015年3月7日(土) | ||
LINK | Wikipedia-藤田信吉- | |||
城主家紋 | 【上り藤】 (武蔵七党小野姓猪股党) 藤田家家紋 |
※西方城の案内板より(加筆あり) 赤線は登城経路 |
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【開山不動尊の説明板】 | 【二条城登城口】 この場所は二条城の竪堀になる。 |
【曲輪】 竪堀を登りつめて最初にある曲輪、目の前には土塁が横たわる。 |
【土塁】 登陸地が不明でこの土塁を直登する。 |
【横堀のような曲輪】 土塁を登ると横堀のような曲輪があり、その反対側には本丸の切岸がある。 |
【本丸切岸上にある石垣跡】 切岸の上部にのみ見受けられたので鉢巻石垣と思われる。 |
【本丸土塁上】 本丸の石垣は土塁上まであり、反対側の本丸側にもある。本丸内は藪がひどく先には進めなかった。 |
【本丸土塁】 土塁の高さは1m程度。 |
【本丸切岸】 |