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城名 | 倉賀野城 | ||
住所 | 〒370-1201 群馬県高崎市倉賀野町 |
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入場時間 | − |
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入場料 | 無料 | |||
指定文化財 | - |
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城郭構造 | 崖端城(平城) | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 倉賀野(元秩父)高俊 | |||
築城年 | 治承年間(1177〜1180)頃 | |||
主な改修者 | 倉賀野光行 | |||
主な城主 | 倉賀野氏 | |||
位置 | 北緯36度17分38秒 東経139度2分42秒 |
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地図 | 1 | 本丸 | ||
2 | 二ノ丸 | |||
3 | 三ノ丸 | |||
4 | 井戸八幡神社 | |||
5 | − | |||
【歴史・沿革】 群馬県高崎市倉賀野にあった城。JR高崎線倉賀野駅から南へ徒歩約5分。烏川左岸の河岸段丘上に築かれていた倉賀野氏の居城。 治承年間(1177〜80年)に、武蔵児玉党支流の秩父高俊が倉賀野に入植して築いた居館がその起源である。高俊はこれとともに倉賀野氏を称した。 南北朝時代に、倉賀野光行が館を城郭へと改修した。戦国時代に入ると、倉賀野氏は他の西上野の国人衆と同様、関東管領の山内上杉氏に仕えるようになった。倉賀野行政は天文15年(1546)の川越城の戦い(河越夜戦)において、上杉憲政の部将として戦死している。上杉憲政が越後の長尾景虎のもとに逃亡した後は、倉賀野城は倉賀野尚行を城主として、金井秀景や須賀佐渡守をはじめとする「倉賀野党十六騎」が城を守った。 倉賀野城は長野氏の居城の箕輪城の支城としての役割を果たしていたことから、永禄4年(1561)の武田信玄の西上野侵攻の際に攻められた。尚行は長野氏と連携しながら武田氏の攻勢をしのいだが、金井秀景らが武田氏に寝返るなどの内部分裂が起こり、永禄8年(1565)についに落城した。 その後、元亀元年(1570)に金井秀景が倉賀野秀景と改名して城主となった。秀景は信玄の死後、勝頼に従ったが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、織田氏の重臣の滝川一益に従い、神流川合戦では滝川方として北条氏と戦った。しかし、本能寺の変後、滝川一益が上野から撤退すると、一転して北条氏直に仕えた。 天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻め(小田原の役)では小田原城に籠城し、落城直前に死去している。倉賀野城は小田原の役終結直後、廃城となった。 残念ながら、城の遺構はほとんど現存していない。烏川沿いの公園に石碑が建っているだけである。 【感想】 城域は住宅街と化し、南端にある雁児童公園内と井戸八幡神社がそこに城があったことを示している。公園内には説明板と城址碑があります。 公園から南側を見れば眼下に烏川が流れ、河岸段丘を利用した崖の端に築城されていたことがよく分かります。 城址碑が建つ場所は、本丸跡から少しずれており、公園の東側の出入口からでた場所が本丸跡になるようです。更に東へ川沿いに進むと二ノ丸跡に建っていた井戸八幡神社があります。 |
登城日 | 2015年04月12日(日) | ||
LINK | 高崎市 倉賀野巡り-歴史と景観- | |||
Wikipedia〜倉賀野城〜 | ||||
城主家紋 | 【団之内ニ松竹】 (武蔵七党児玉氏流) 倉賀野氏家紋 |
※日本城郭体系より |
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※日本城郭体系縄張図とGoogleMapの重ね合わせ |
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【案内板】 倉賀野駅すぐの倉賀野小学校の塀の上にある案内板。 |
【倉賀野城説明板】 雁児童公園入口にある。 |
【倉賀野城址碑】 |
【烏川と城址南側崖】 | 【烏川と雁児童公園】 | 【烏川】 |
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【井戸八幡神社】 | 【八幡神社 修復記念碑】 ここに倉賀野城の二ノ丸跡だということが書かれている。 |
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