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城名 | 本庄城) | ||
住所 | 〒367-0051 埼玉県本庄市本庄3-5 |
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入場時間 | − |
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入場料 | 無料 | |||
指定文化財 | 市指定史跡 | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 本庄宮内少輔実忠(諸説あり) | |||
築城年 | 弘治2年(1556) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 本庄氏、小笠原氏 | |||
位置 | 北緯36度14分34秒 東経139度11分30秒 |
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地図 | 1 | 本郭 | ||
2 | 稲荷神社 | |||
3 | 八坂神社 | |||
4 | 本庄市役所 | |||
5 | − | |||
【歴史・沿革】 本庄城は、弘治2年(1556)本庄宮内少輔実忠により築城されたといわれている。 本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄10年(1567)に後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に服したが、実忠の子隼人正の代に至って天正18年(1590)豊臣秀吉の関東攻めにより落城した。 徳川家康の関東入国に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信嶺が1万石を賜って新城主となったが、慶長17年(1612)その嗣子信之の代に古河城へ移封され、本庄城は廃された。 元禄13年(1700)の城跡検地帳には三町四反畝二十九歩(約3.4ヘクタール)と記されている。その区域は、現在の本庄簡易裁判所から八坂神社にかけての地域で、北側は元小山川が流れ、南東は久城堀で切断された自然の要害であった。 なお、小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、本庄城跡は昭和33年本庄氏指定の文化財となっている。 (城址説明板より) 【感想】 城址といわれる城山稲荷神社に行くと説明板が有り、城域が広かったことが分かる。その為城山稲荷神社周辺を散策すると、どうも城山稲荷神社と本庄市役所の間の民地が空き地のようになっており、ここが本郭跡のようである。市役所の駐輪所付近からは土塁のようなものも確認できる。 また城域の東端といわれる八坂神社の南側は一段下がっており、昔は堀であったと思われる。 |
登城日 | 2015年04月12日(日) | ||
LINK | 本庄市役所-市指定文化財(記念物) | |||
Wikipedia〜本庄城(武蔵国)〜 | ||||
城主家紋 | 【三階菱】 (清和源氏義光流) 松尾小笠原氏家紋 |
【城山稲荷神社】 | 【城址碑と鳥居】 | 【城山稲荷神社の説明碑】 |
【本庄城説明板】 訪城時は、さくら祭りの最中で提灯のブレーカが仮設されていた。正直なんでここにという感じです。 |
【城山稲荷神社参道】 | 【一段低くなった場所にある境内】 |
【境内のお稲荷さん】 | 【拝殿と埼玉県指定天然記念物の欅】 この欅は樹齢400年と推定され、弘治2年(1556)本庄実忠によって本庄城築城のときに献木されたと伝えられている。 |
【城下公園】 城山稲荷神社に隣接した公園。 |
【元小山川】 | 【元小山川】 | 【元小山川対岸より見た城址】 |
【本庄市役所】 ここも本庄城の城域である。 |
【本郭跡】 城山稲荷神社の参道と本庄市役所の間は民地となっており入ることは出来ないが、この場所が本郭跡のようです。 |
【土塁跡】 本郭跡には土塁跡も見られる。 |
【土塁跡】 | 【土塁跡】 | 【八坂神社】 城山稲荷神社の東側に位置する。ここが本庄城址の東端になる。 |
【八坂神社・南側】 境内に入る石段横は昔の堀のようにも見える。というのも八坂神社と道路の間は一段下がった土地になっているためである。 |
【八坂神社・社殿】 | 【城下公園】 八坂神社の裏から城下公園へ出ることができる。 |