城名 深谷城(別名:木瓜城)
住所 〒366-0823
埼玉県深谷市本住町17
入場時間
入場料 無料
指定文化財 -
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 上杉房顕
築城年 康正2年(1456)
主な改修者
主な城主 深谷上杉氏、松平氏、酒井氏
位置 北緯36度11分57.3秒
東経139度17分10.7秒
地図 城址公園
浅間神社
外濠跡
【歴史・沿革】
深谷城は山内上杉氏支流の深谷上杉氏(庁鼻和(こばなわ)氏)の居城で唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城。
第4代当主の上杉房憲は康正2年(1456)、享徳の乱が起こって古河公方足利成氏との軍事対立が激化すると、庁鼻和城(同市)西方の唐沢川近くに新たに深谷城を築城して居城を移した。これにより、庁鼻和城は廃城となり、城跡に深谷上杉氏の菩提寺の国済寺が建立された。

天文21年(1552)、北条氏の上野侵攻により、関東管領上杉憲政が居城の平井城(群馬県藤岡市)を捨てて、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に逃亡すると、深谷上杉氏は北条氏に降伏・臣従したが、謙信が関東に侵攻すると、謙信に与して北条氏に敵対。上杉氏の力が弱まると再び北条氏に臣従し、鉢形城(大里郡寄居町)の北条氏邦の城代として引き続き深谷城を居城とした。

しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)で、城主の上杉氏憲は小田原城(神奈川県小田原市)に籠城したが、城と領地を奪われて深谷上杉氏は滅亡した。

この戦いの後、深谷城は関東に入部した徳川氏のものとなり、松平康直が1万石で入城。
その後、松平忠輝、松平忠重が居城としたのち、元和8年(1622)には酒井忠勝が同じく1万石で入封したが、寛永1年(1624)に忍藩5万石(忍城、同県行田市)に移封になったことに伴って、深谷城は廃城となった。

現在、かつての城域のほとんどが市街地になっているため、遺構はほとんど残っておらず、深谷上杉氏の祈願社だった富士浅間神社(智形(ちかた)神社)の社殿をめぐる池と水路などに、わずかに当時の姿をとどめるのみである。また、城跡の一角が城址公園となっており、石垣や城壁などの模擬構造物がつくられているが、これらはかつての深谷城を復元したものではない。別名は、城域の形が木瓜(ぼけ)の花、あるいは木瓜の実の断面に似ていたことから木瓜城とも呼ばれる。


【感想】
JR高崎線深谷駅から北に約15分の場所に、城址公園がありますが、城址公園を囲むように模擬塀や堀が作られている。中は公園で市民の憩いの場所になっている。城址としては高円寺大尉は何も残っていないが隣接する富士浅間神社に境内を囲むように深谷城の外濠跡を見ることができるのが唯一の遺構でした。


登城日 2015年04月12日(日)
LINK 彩の国埼玉情報ナビさいたまなび-深谷城址公園-
Wikipedia〜深谷城〜
城主家紋 【竹に二羽飛び雀】
(藤原氏勧修寺流)
深谷上杉氏家紋
【剣片喰】
(加茂氏族)
酒井氏家紋

                      

  
探訪

※城址公園南側にある説明板に描かれた「深谷古城図」より
【城址公園南西角の模擬塀】 【城址公園西側模擬堀】 【城址公園西側入口】
【城址公園西側入口】 【城址公園西側入口模擬石垣・塀】 【城址公園西側入口模擬石垣・塀】
【城址公園内に建つ市民文化会館】 【城址公園南側入り口に立つ説明板】 【城址公園南側入口にある模擬石垣】
【富士浅間神社】 【深谷城外濠跡】 【深谷城外濠跡】



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