城名 粟野城(別名:城山、涛速城)
住所 〒322-0305
栃木県鹿沼市口粟野字城山
入場時間
入場料
指定文化財 市史跡
城郭構造 山城
天守構造
築城主 平野将監範久
築城年 暦応元年(1338)
主な改修者
主な城主 平野将監範久、斎藤秀隆、神山氏、横尾氏、
落合徳雲入道
位置 北緯36度31分1秒
東経139度40分6秒
地図 本丸
見張櫓
狼煙台
鬼の門
女二城
【歴史・沿革】
粟野城址は、口粟野の通称「城山」と呼ばれるところにあり、頂上の横尾勝右エ門撰文の碑によると、足利又太郎忠綱がここに籠り、涛速(なにわ)城と称したとあります。また別の記録では、忠綱の一族郎党がここで全滅したということです。

暦応元年(1338)、平野将監範久が修築 、居城し粟野・粕尾・南摩を領したものの小山氏・宇都宮氏連合軍の侵略に悩まされ、その後に佐野氏に降伏し、佐野城の支城となりました。

城代平野大膳久国の時には、天正3年(1575)、皆川広照は斎藤秀隆に粟野城を攻め落とさせ、秀隆を城主としました。秀隆に追われた平野久国は佐野に逃れました。

「皆川正中録」によると、天正12年(1584)、小田原の北条氏直軍が進攻して太平山(おおひらさん)に陣をとったので、皆川広照は皆川本城より草倉山に布陣して対戦した。このとき斎藤秀隆もこの戦いに加わったので粟野城は手薄となり、この隙を狙って平野久国は粟野城に攻め入り、城を奪還して久国の領有となり、神山氏や横尾氏を城代としました。

天正16年(1588)粟野城が佐野氏方の手に落ちたことを知った皆川広照は、粟野城の奪還をはかります。平野久国は、佐野方の援軍を得ますが防戦もむなしく落城。このときの戦は、大変激しく皆川方の大将斎藤秀隆や粟野城代平野久国のほか多くの武将が討死にしました。

皆川氏は、落合徳雲入道を粟野城代としましたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻めの際、北条氏と盟約関係のあった皆川広照は、姻族関係の壬生義雄とともに北条氏に属したので、粟野城は秀吉派遣の上杉・真田両氏によって攻め落とされ廃城になったといわれる。

参考文献:とちぎの古城を歩く -兵どもの足跡を求めて-


【感想】
来訪が夏場でしたが、城址エリアは展示林の一部なので木々もなく整備され非常に見易くなっていました。頂上の見張櫓跡には防空監視哨跡があり戦後70年ということもあり感慨深いものがありました。城の遺構としては土塁や堀切の他に石垣もありましたがこれは後世のもののように感じます。


登城日 2015年08月09日(日)
LINK 鹿沼市HP-粟野城址-
とちぎなび〜粟野城山公園〜
城主家紋

                      

  
探訪

※案内板より

※案内板にあった縄張り図(加筆あり)
【追手門跡】 【馬場跡】
駐車場の目の前にあります。
【土塁】
馬場跡の仕切り土塁と思われる。
【南側尾根の堀切】
ここからでは東屋が邪魔で見えにくいですが、東屋の奥に堀切があります。
【南側尾根の堀切】 【南側尾根の堀切】
【土塁】 【土塁横から見た忠霊塔方向】 【忠霊塔】
この裏に粟野城の石垣があります。
【石垣】
粟野城のものと書かれていますが、場所的にこの場所に当時のものがあるとは考えにくい。忠霊塔を建てるにあたって作ったものではないかと思われる。
【鬼の門跡】 【井戸跡】
【登城道】 【登城道】 【本丸跡】
【本丸跡】
上から見ると三日月状のように見える。
【本丸上から頂上方向の眺望】 【狼煙台跡】
【狼煙台跡と眺望】 【防空監視哨跡】
見張櫓跡に築かれた第ニ次世界大戦時の防空監視哨で栃木県下では二ヶ所のみ現存。
【防空監視哨跡】
【見張櫓跡】 【見張櫓跡からの眺望】 【北側尾根】
【北側尾根の堀切】 【北側尾根の堀切】 【北側尾根】
【二重の塔】 【女二城】 【五重塔】
この右側を進むと城主であった斎藤秀隆の墓があるようです。
【公園部分に設置された「城山スカイローラー」】 【公園部分に設置された「城山スカイローラー」】
グルメ
ジャンル:季節料理
店名:粟野町観光やな
住所:栃木県鹿沼市深程860
TEL:0289-85-3092
営業時間:11:00〜17:00
定休日:不定休

夏になると必ず行く場所。
思川の鮎を手軽に味わえます。
鮎の塩焼きにライス(鮎の味噌汁)をつければ定食になります。またお新香は自家製で美味いです。(たまに漬かってないのが出るのもご愛嬌)
鮎以外にもうなぎやアイソも食べれます。



Back



inserted by FC2 system