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城名 | 黒羽城(別名:九鶴城) | ||
住所 | 〒324-0234 栃木県大田原市前田977 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 市史跡 | |||
城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | − | |||
築城主 | 大関忠増 | |||
築城年 | 文安年間(1444〜1448) | |||
主な改修者 | 大関高増、大関資増(徳川の援助にて) | |||
主な城主 | 大関氏 | |||
位置 | 北緯36度52分10秒 東経140度07分20秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 中丸跡 | |||
3 | 二ノ丸(北城)跡 | |||
4 | 三ノ丸跡 | |||
5 | 空掘 | |||
【歴史・沿革】 那須氏の支族の大関氏の居城。那珂川と松葉川にはさまれた比高約30mの段丘の上にあった連郭式の城である。 文安年間(1444〜48年)に大関忠増が砦跡であった場所に城を築いたのが起源といわれる。 天文11年(1542)、白旗城主の大関宗増と、同じ那須氏の与力の大田原資清との間に抗争が起こり、大田原氏は大関氏の居城の白旗城を攻めて落城させ、宗増の嫡男増次を討ち取った。その後、資清は長男の高増に大関姓を名乗らせて宗増の養嗣子とさせた。この高増が大関氏の家督を継いだ後の天正4年(1576)に黒羽城を整備・拡張し、大関氏の居城とした。高増は豊臣秀吉の小田原城攻め(1590年、小田原の役)にもいち早く参陣して、秀吉から本領を安堵され、さらに慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、当主となった大関資増(高増の子)が徳川氏に味方して会津の上杉景勝の押さえとして働いた。その際、徳川氏からの援助により、黒羽城に黒門・中門・北坂門などの城門や塀・築地がつくられたといわれる。 江戸幕府が開かれると、旧領に黒羽藩2万石(後に1万8000石)が成立し、代々大関氏が藩主をつとめて明治にいたった。この間、黒羽城は藩主大関氏の居城、藩庁となり、維新後、廃城となった。ただし、黒羽城は、宇都宮・壬生・烏山・大田原などの諸城とは異なり、幕府からは陣屋として扱われた。関東の外様大名としては、一貫して旧領の藩主をつとめたのは、大関氏と大田原氏などごくわずかである。 城跡は現在、黒羽城址公園として整備され、空堀や水堀、土塁などの遺構がたいへん良好な状態で現存している。なお、同公園はあじさいの名所として知られ、毎年6月下旬から7月上旬には多くの人出でにぎわう。三ノ丸跡には、黒羽に滞在した松尾芭蕉の足跡を紹介する資料館の「芭蕉の館」が建っている。 【感想】 会所跡が駐車場になっているためそこに車を置き、道を渡れば本丸へと続く枡形が連続する虎口があります。この枡形の連続は見事。また、曲輪を区切る空堀は深く堀底を歩けばその大きさが実感できる。二ノ丸の方は改変が多く、廃墟が建っているため立入禁止で調べることが出来ないのが残念である。 |
登城日 | 2015年08月11日(火) | ||
LINK | 大田原氏観光協会-黒羽城址公園- | |||
Wikipedia-黒羽城- | ||||
城主家紋 | 【十六角の抱き柊】 (武蔵七党丹党流) 大関氏家紋 |
※案内板より |
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【黒門跡】 | 【黒門跡】 | 【雨社稲荷神社の土塁と水堀跡】 |
【二重土塁】 雨社稲荷神社の鳥居の両側が土塁になっている。。 |
【雨社稲荷神社】 | 【水堀跡】 |
【会所跡】 | 【会所跡の横堀と土塁】 | 【会所跡の土塁】 |
【城址碑と枡形(一段目)】 | 【枡形と枡形を繋ぐ橋】 橋を渡った先に廊下門があったとされる。そのためこの橋は廊下橋だったのかも知れない。 |
【橋右側の空掘】 |
【橋左側の空掘】 | 【廊下門跡と枡形(二段目)】 | 【枡形内の井戸跡】 |
【本丸跡】 | 【本丸跡】 | 【展望台】 |
【本丸虎口】 | 【本丸と馬出を繋ぐ橋】 | 【橋右側の空掘】 |
【橋左側の空掘】 | 【馬出跡】 | 【本丸と馬出を繋ぐ橋】 |
【展望台より見た本丸西側の眺望】 木々でよく見えないが間近に那珂川が流れている。 |
【本丸土塁上】 | 【本丸切岸】 |
【中丸跡】 | 【二ノ丸(北城)跡】 今は廃墟になっており立入禁止となっている。 |
【本丸東側の横堀】 |
【三ノ丸(西側)跡】 | 【本丸西側下の横堀】 | 【三ノ丸(西側)跡】 |
【空掘跡】 | 【空堀跡】 | 【空堀跡】 |
【三ノ丸(南側)と馬出との間の空掘】 | 【三ノ丸虎口か?】 三ノ丸(南側)には芭蕉の館が建ち、改変があるため虎口だったのかわからない。 |
【三ノ丸虎口か?】 |
【三ノ丸(南側)跡】 | 【三ノ丸跡に建つ芭蕉の館】 | 【芭蕉・奥の細道像】 |