城名 川崎城(別名:塩谷城、塩谷故城、蝸牛城)
住所 〒329-2144
栃木県矢板市川崎反町・館ノ川
入場時間
入場料
指定文化財 市史跡
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 塩谷朝業
築城年 正治・建仁年間(1199〜1203)
主な改修者
主な城主 塩谷氏
位置 北緯36度47分15秒
東経139度55分10秒
地図 本丸跡
二ノ丸跡
三ノ丸跡
一の堀跡
二の堀跡
【歴史・沿革】
川崎城は、別名塩谷城ともいう。城は宮川右岸の丘陵上に築かれた典型的な山城で、南北に長い自然丘陵を活かして築かれ、東側は断崖をなし、宮川は外堀の役目を果たしている。南側と西側は傾斜が比較的緩やかなので、ここには階段状に多くの堀で囲った曲輪が設けられている。

「下野国誌」によれば、この城は正治・建仁年間(1199〜1204)宇都宮業綱(宇都宮城四代城主)の子塩谷朝業(?〜1237.塩谷氏の祖)によって築かれたという。もっとも今に残る城郭の規模や堅固さになったのは、室町時代以降のことである。

朝業は「秋田塩谷系譜」によれば、源義家の養子になって塩谷氏を名のり、城を築いたわけだが、これは宇都宮氏の勢力が増大し、源姓塩谷氏を支配下に組み込み、北方の那須氏への構えとして築城したのであろう。

朝業は兄頼綱の出家後、宇都宮氏を代表して鎌倉幕府に出仕し、三代将軍実朝に歌才を認められ近似するが実朝が鶴岡八幡宮で暗殺されると(1219年)、これを悲しんで出家して、信生法師を号した。

川崎城には塩谷氏が累代居城したが、教綱のとき、氏族の武茂持綱が宇都宮氏を継いだことに不満を示して持綱と反目し、応永30年(1423)、教綱は川崎郷館ノ川と幸岡(矢板市)の境にある梨木坂で持綱を討ち取ったという。その後、教綱はいったん宇都宮市と和睦したが、長禄2年(1458)、教綱は宇都宮城内に誘われて殺害されたので、ここに塩谷氏は断絶したと伝えられている(下野国誌)。

さらに同書によると、塩谷氏が断絶すると、宇都宮正綱の四男孝綱が塩谷家を継いで塩谷氏を再興したので、再興塩谷氏の祖になったという。孝綱の後を継いだで川崎城主となったのは、長子の由綱(義孝)である。弟の信孝は養子として喜連川城(倉ヶ崎城)の城主となった。いわゆる喜連川塩谷氏17代の惟久である。

「那須記」によると、由綱は孝信に相談もなく宇都宮氏から養子をもらうことにしたため、二人の仲が悪化し、由綱方には宇都宮・佐竹両氏が味方し、孝信方には那須資胤が味方したという。こうして川崎塩谷氏・宇都宮氏と那須氏・喜連川氏が対立し、那須氏の拠点の一つ沢村城(矢板市沢)をめぐって激しい攻防戦が展開されたが、由綱方が優勢であったようだ。

しかし、由綱は天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東入部にともない、これに背いて奥州に逃れているので、このころ川崎城は御前原城(矢板市早川町)とともに廃城になったようである。

参考文献:「とちぎの古城を歩く-兵どもの足跡をもとめて-」


【感想】
公園として整備はされてはいるものの曲輪の形状や堀の遺構は良好に残されているようです。ただ除草されているのは城址の主となる部分のみで二ノ丸から10m以上下にある二の堀や三ノ丸辺りは藪化しており、つる草が多く見に行くのが大変であった。秋以降に訪れれば見やすくはなっていることであろう。

登城日 2015年08月11日(火)
LINK 矢板市HP-川崎城跡公園-
Wikipedia-川崎城-
城主家紋 【三つ巴】
(藤原北家宇都宮氏流)
塩谷氏家紋

                      

  
探訪

※川崎城跡公園案内図より

※縄張図
【帯郭跡】 【内根古屋跡】 【西出丸跡】
【南曲輪跡】 【一ノ堀跡】 【一ノ堀跡】
【本丸入口】 【本丸跡】 【城北側の眺望】
【本丸跡】 【本丸跡と土塁】 【土塁上にある城址碑】
【二ノ丸跡と一ノ堀跡】 【一ノ堀跡】 【二ノ丸T(上段)跡】
【一ノ堀跡】 【二ノ丸U(下段)跡の北側端】
ここに櫓でもあったような空間である。
【二ノ丸U(下段)跡】
【三ノ丸へと続く階段】
二ノ丸から10m以上、下に降りると二ノ堀跡に着く。
【二ノ堀跡】 【二ノ堀跡】
【三ノ丸跡】 【東出丸跡】 【東出丸跡】
【星宮神社】 【星宮神社】 【帯曲輪跡】
フェンスで区切られるとはいえ、すぐ隣は東北自動車道。フェンス一つというのが怖い。



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