城名 喜連川城
(別名:大蔵ヶ崎城、倉ヶ崎城、狐川城、来達川城)
/喜連川陣屋
住所 〒329-1412
栃木県さくら市喜連川
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 喜連川城 :山城
喜連川陣屋:陣屋
天守構造
築城主 喜連川城 :塩谷惟広
喜連川陣屋:喜連川頼(足利)氏
築城年 喜連川城 :文治2年(1186)
喜連川陣屋:文禄2年(1593)
主な改修者
主な城主 喜連川城 :塩谷氏
喜連川陣屋:喜連川(足利)氏
位置 北緯36度43分10秒
東経140度01分09秒
地図 本丸跡
二ノ丸跡
三ノ丸跡
外郭跡
喜連川陣屋
【歴史・沿革】

<喜連川城>
喜連川城は、さくら市(旧喜連川町)のお丸山公園がその跡である。

城は丘陵の先端部に位置し喜連川丘陵の要害を巧みに利用した城で、総面積3.8haにおよぶ連郭式山城で五つの堀切と曲輪によって形づくられた山城で周囲は断崖となっており、西南には荒川が流れている。初め「狐川城」または「来達川城」といった。倉が崎はもと大蔵が崎といっていたが、明治6年(1873)にあたり大の字を削り倉が崎と改め「倉ヶ崎城」と呼ばれるようになった。

所伝によれば文治2年(1186)、塩谷惟広によって築かれたと言われている。以降、天正18年(1590)17代孝信(惟久)までの約400年間、喜連川塩谷氏累代の本拠として戦乱の中を生き延びた。喜連川城が廃城になったのは天正18年(1590)といわれる。その理由については諸説あって定かではない。@豊臣秀吉の小田原攻めの際、最後の城主孝信(惟久)が参陣しなかったので所領を没収されたとかA豊臣秀吉が小田原攻めの後、関東の諸侯に号令し人質を出させたが、孝信(惟久)はつい遅れをとって機会を失くし、秀吉の怒りを触れ出奔したので廃城となったとする説があるが今のところこれらを裏付ける史料はない。

廃城後の城跡は喜連川町によってお丸山公園として整備され、喜連川のシンボルとして観光拠点となっていたが、2011年3月11日には東日本大震災による被災で敷地内に700メートルに渡る大規模な亀裂が生じたほか、公園内の各種施設が損壊したため、周辺への避難勧告が出され、お丸山公園への立ち入りも禁止された。復旧の完了が2年後の2013年3月の見込みとされていたが、震災から半年後の2011年9月22日に台風15号による風雨で土塁が幅70メートル、長さ約140メートルの土砂崩れが発生し、民家を巻き込む被害が生じた。こうした中で公園自体の存廃も議論の争点となっている。2013年3月には土地部分の復旧工事が終了したが、損傷が激しく復旧にあたり多額の費用計上を必要とするスカイタワーなどの施設は再開の見通しが立たされていない。

現在、一部立入禁止が解除され入れるようになってはいるが、城址の遺構部分は立入禁止のままであり、除草などもされぬまま放置状態で荒廃している。


<喜連川陣屋>
天正10年(1582)、古河公方の足利義氏は後継不在のまま他界したが、豊臣秀吉の命により、義氏の娘の時姫と小弓公方の足利義明の孫国朝を結婚させることで義氏の名跡を継がせることになり、これに伴い喜連川に3500石の所領が与えられた。しかし、国朝は秀吉の朝鮮出兵に応じて出陣し、その途上の広島で死去し、弟の頼氏が跡を継いで喜連川氏を称した。この頼氏が所領の喜連川に文禄2年(1593)に喜連川城のあった北側の麓に陣屋を築いた。

喜連川氏は江戸時代に入って、幕府から5000石の所領が与えられ、御三家・国持大名と同等の格式と、国許居住の自由、参勤交代や諸役免除などの特権が認められた。明治に入り、最後の当主の喜連川聡氏は足利姓に戻している。明治9年(1876)に陣屋は焼失し遺構は残っていない。陣屋跡には現在模擬城門があるが、これはかつての陣屋の門を復元したものではない。陣屋の門は同市郊外に移築され現存している。


【感想】
喜連川城は、東日本大震災などの天災によって、城跡に築かれたスカイタワーなどの施設が被災し、現在も城跡部分が立入禁止エリアになっており荒廃が著しく城跡としては見る影もない。本丸跡付近は土砂が崩れてしまい遺構も破壊されているようです。
麓の喜連川陣屋も喜連川庁舎などの施設が建ち遺構はない。あるのは模擬城門が建つのみだが、移築されて市内の民家にあるそうです。


登城日 2015年08月14日(金)
LINK さくら市-お丸山公園-
Wikipedia-喜連川城-
城主家紋 【三つ巴】
(藤原北家宇都宮氏流)
塩谷氏家紋
【足利二つ引】
(清和源氏義家流)
足利氏家紋

                      

  
探訪

※Google Earthより
【模擬城門】 【模擬城門】 【模擬城門】
【陣屋跡】 【陣屋跡からみた喜連川城址】 【喜連川城址入口】
【公園内の通行止め】 【東二ノ丸跡のはず】
本丸跡の東側なので東二ノ丸跡になるはずだが、この部分が土砂崩れにより改変されてしまっているようです。(ここは立入禁止区域ではありませんでした。)
【東二ノ丸跡から見た本丸方向】
ここは立入禁止箇所になる。この場所の南側が台風により土砂崩れがあり、復旧に当たって改変されしまっているようですが、目の前の土塁の上が本丸跡のようです。
【本丸横の通路】
写真を撮った足元には立入禁止の看板あり。
【本丸の虎口があった場所だろう】 【図書館から見た喜連川城址】
この図書館部分も陣屋跡になる。
【二ノ丸堀切に架かる橋】
現在は近づくこともできない。
【喜連川城址遠景】
「道の駅きつれがわ」の展望台より。



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