城名 臼井城
住所 〒285-0863
千葉県佐倉市臼井字城之内
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 連郭平山城
天守構造 なし
築城主 臼井常康か?
築城年 永久2年(1114)
主な改修者 臼井氏
主な城主 臼井氏、原氏、酒井家次
位置 北緯35度44分18.21秒
東経140度10分45.24秒
地図 本丸跡
二ノ丸跡
三ノ丸跡
空堀
腰郭跡
【歴史・沿革】
千葉県佐倉市臼井田にあった中世から江戸時代初めにかけての平山城。
千葉氏支流の臼井氏の居城。千葉氏の本城の本佐倉城(印旛郡酒々井町〜佐倉市)の前線拠点であり、かつ交通の要衝にあったために、上杉謙信をはじめ数多くの武将の攻撃を受けた。一度も戦いを経験しなかった本佐倉城とは好対照である。

平安時代末期の永久2年(1114)、千葉氏の初代当主の平常兼の子・常康(臼井氏を名乗った)が建てた居館が臼井城の起源ともされるが、この居館がその後の臼井城かどうかは定かではない。

14世紀半ば、臼井氏の中興の祖といわれる臼井興胤が本格的城郭として整備したとされる。
康正元年(1455)から文明15年(1483)にかけて、関東一円で鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことに端を発した享徳の乱が起こったが、この乱に関連して起こった千葉氏の内紛による境根原合戦で、千葉自胤(千葉氏当主)に敗れた千葉孝胤は、臼井持胤の守る臼井城に籠城した。

文明11年(1479)、この城は自胤を支持する太田道灌率いる扇谷上杉氏の軍勢に攻められ、7ヵ月に及ぶ籠城戦の末、落城した。自胤はこの城に城代を置いたが、間もなく孝胤が奪回している。その後、小弓城(千葉市中央区)を本拠とした小弓公方足利義明と古河公方の足利高基・晴氏父子との対立が激しくなると、臼井城主の臼井景胤は小弓公方に味方して千葉氏宗家とは立場を異にしたが、天文7年(1538)の第一次国府台合戦で足利義明が戦死すると千葉氏に帰参した。景胤の死後、生実城(小弓城)の原胤清の子、胤貞が家督を継いだ臼井久胤の後見となったことから、臼井城は実質的に原氏の支配下に置かれた。

永禄4年(1561)、久胤を城主とする臼井城は、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見氏の武将で大多喜城(夷隅郡大多喜町)の正木大膳に攻められて落城、久胤は結城城(茨城県結城市)の結城晴朝を頼って脱出したが、永禄7年(1564)、家老の原胤貞が同城を奪還した。

永禄9年(1566)、同城は上杉謙信と里見義堯・義弘父子により攻められ、落城寸前の事態になったが、北条氏の加勢により落城を免れている。天正12年(1574)、原氏の本城の生実城が里見氏によって落城したため、以後、臼井城が原氏の本拠となった。

天正8年(1590)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)の際、原氏は徳川氏に敗れ、徳川家康が関東に入部すると、臼井城には譜代の酒井家次が3万石で入城した。しかし、家次は慶長9年(1604)、上野国高崎に移封となり、これに伴い、臼井城は廃城となった。この間、文禄2年(1593)に、城内からの出火により城は灰燼に帰している。

往時の臼井城は千葉一族の城の中でも有数の規模で、周囲を深い堀と急崖、さらに印旛沼に囲まれ、謙信が攻めあぐねるほどの堅城だった。同城の主要部分は現在、臼井城址公園となっており、曲輪、土塁、空堀、虎口、石垣などの遺構が残っている。二ノ郭の周囲の深い堀の跡などはかつての堅城ぶりを物語る遺構である。この城は印旛沼のほとりにあったが、沼の水位が下がったこともあり、現在の城跡は印旛沼から少し離れた場所にある。


【感想】
登城口は見逃してしまいそうな小さな看板があるのみでした。城址公園として整備されているため非常に見やすくなっている。本丸から腰郭の方に下りて行くと曲輪をたどっていくと本丸空堀に繋がっていることがわかる。往時は城の下まで印旛沼があったというから堅城ということが窺い知ることが出来る。


登城日 2015年09月21日(月)
LINK 佐倉市公式HP-臼井城址公園-
Wikipedia-臼井城-
城主家紋 【月星(九曜に半月)】
(桓武平氏千葉氏族)
原氏家紋
【剣片喰】
(加茂氏族)
酒井氏家紋

                      

  
探訪

※城内案内板の縄張図より
【登城道から見た本丸切岸】 【本丸空堀跡】
撮影している箇所は駐車場になっている。
【本丸空堀跡】
【土橋】
二ノ丸から本丸に入るための土橋
【本丸虎口右側土塁】 【本丸虎口左側土塁】
昔はこの上に祠があったようです。
【本丸跡】 【本丸跡】 【本丸土塁】
【本丸跡】 【本丸からの眺望】
遠くに印旛沼が見える。この印旛沼が城の下までありました。
【本丸切岸】
【本丸搦手側虎口】 【本丸搦手側虎口の石垣】
この石垣は酒井氏統治の頃の物か?
【搦手側登城道】
【祠と通路】
ここから曲輪Tへ
【祠横の通路】 【腰郭1】
【曲輪T】 【曲輪T】 【曲輪T】
【腰郭2】 【腰郭2より見た曲輪T】 【腰郭2】
【腰郭2の通路】 【腰郭2】 【腰郭2より見た腰郭1、曲輪T】
【腰郭2】 【腰郭2から続く本丸空堀】 【本丸空堀】
【本丸空堀】 【二ノ丸跡】 【城址碑と説明板】
【二ノ丸虎口】 【二ノ丸空堀】 【太田図書の墓】
太田道灌の弟太田図書助資忠と千葉自胤の軍勢が臼井城を包囲したが堅城のため一旦引き揚げようとした際、城内から兵が繰り出し激戦となり臼井城は落城したが、その時に図書助他53人がこの地で討死した。
【太田図書の墓】 【三ノ丸跡】 【星神社(臼井妙見社)】
臼井城築城の際に鬼門の珍井創建された社の一つ。社紋は千葉氏の家紋「月星」、「日月」、「九曜」であり、妙見が由来である。



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