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城名 | 青鳥城 | ||
住所 | 〒355-0072 埼玉県東松山市石橋 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 県指定史跡 | |||
城郭構造 | 輪郭式平城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 不明 | |||
築城年 | 12世紀末(平安時代末期) | |||
主な改修者 | 不明 | |||
主な城主 | 藤原斎心入道利行、山田伊賀守直安 | |||
位置 | 北緯36度01分52.1秒 東経139度22分37.7秒 |
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地図 | 1 | 本郭跡 | ||
2 | 二ノ郭跡 | |||
3 | 三ノ郭跡 | |||
4 | 折邪(おりひずみ) | |||
5 | おため池(堀跡) | |||
【歴史・沿革】 城跡は東松山台地の南縁部に立地し、都幾川の河岸段丘を南に見下ろす所に位置します。 城郭は本郭と二ノ郭及び三ノ郭から成り、史跡の指定範囲は本郭と二ノ郭の部分で、土塁・空堀・水堀が昭和47年の発掘調査で確かめられています。その規模は東西約550m、南北約300mを測ります。二ノ郭の土塁には城を守るために、北側の中央部でクランク状に折れ曲がる折邪(おりひずみ)が認められます。三ノ郭は一部が現存し、二ノ郭の外側へ同心円状に広がり土塁と堀が築かれていました。この城郭は多曲輪形式と言われています。 城郭の配置(縄張り)から築城の順序は、本郭を最初につくり、その後に二ノ郭と三ノ郭が増築されたと見られます。この築城方法は、嵐山町の菅谷館跡と類似しています。 築城時代はについては、「源平盛衰記」に源頼朝が武州月田川のはた青鳥野に陣をとる(寿永二年・1183年)とあり、本郭は十二世紀末(平安時代末期)には築城が明らかです。天正18年(1590)前田利家の軍に落城し、16世紀末に廃城となりました。 築城当初の居城者は定かではありませんが、『妙昌寺縁起』には建武元年(1334)に青鳥城主として藤原斎心入道利行がみえ、後北条時代には山田伊賀守直安が在城したと伝えられています。 (説明板より) 【感想】 本郭を中心に同心円状に二ノ郭・三ノ郭があるとするならば、この城は輪郭式だったと思われる。ただそれが半円城なのか完全輪郭かの判断は遺構が破壊されているため不明ではある。 城跡内を関越道が通り二ノ郭の堀はおため池部分のみが残る。 二ノ郭は住宅街ではあるが堆肥工場や養豚場があるようで匂いがきついという(自分が行った際にはその匂いには気が付きませんでした。風向きにもよるのでしょう。)ただその住宅街の北側には立派な土塁が残り折邪(おりひずみ)も確認することが出来た。 歩き回ると中世城郭としては巨大な城で、数千単位の軍勢を移動した際の駐屯基地的な役割をもった繋ぎの城だったと思われる。 |
登城日 | 一回目:2016年02月27日(土)-本郭のみ 二回目:2016年03月06日(日)-二ノ郭・三ノ郭 |
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LINK | 青鳥城-Wikipedia- | |||
城主家紋 | − | − |
※説明板より(追記、番号あり) |
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【@おため池】 二ノ郭の堀跡(三ノ郭の堀と書かれているものもあるが説明板には、おため池の東側に三ノ郭と記載があるためここでは二ノ郭の堀としている)と言われこの箇所のみ残っている。 |
【@おため池】 | 【A虎御石】 高さ375cm、幅70〜77cm、厚さ14cmで、比企・入間地方最大の板石塔婆。応安2年(1369)に建立されたもの。 |
【二ノ郭跡に立つ説明板】 | 【二ノ郭跡に立つ指標】 | 【B二ノ郭跡】 目の前の木々が生い茂った場所の向う側が本郭跡になる。 |
【C板正塔婆(市指定板碑)と土塁】 高さ242cm、幅54〜60cmで正中2年(1325)4月8日に建立された。 |
【二ノ郭土塁】 | 【D虎口】 二ノ郭へと続く虎口、三ノ郭側は畑になっている。 |
【D虎口】 | 【E折邪(おりひずみ)】 D虎口の左側の竹林に足を踏み入れると見ることが出来る。 |
【虎口と土橋】 この場所は住宅街との往来のために後世になって土塁を切ったと思われる。 |
【二ノ郭堀跡】 この先に折邪(おりひずみ)が見られ、この土塁の上には防御施設(櫓)が置かれていたと思われる。 |
【F折邪(おりひずみ)】 | 【G住宅街側から見た虎口】 |
【本郭土塁】 | 【本郭堀跡】 | 【城址碑】 |
【H本郭跡】 内部は畑になっており、その周囲を土塁が囲んでいる。 |
【I本郭西側の堀跡】 | 【I本郭西側の堀跡】 |