城名 本与板城(別名:与板城)
住所 〒940-2403
新潟県長岡市与板町本与板
入場時間
入場料
指定文化財 県指定史跡
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 籠沢入道(新田義顕の一族)?
築城年 建武元年(1334)?
主な改修者
主な城主 飯沼氏、直江氏
位置 北緯37度33分1秒
東経138度48分12秒
地図 実城
二ノ郭
三ノ郭
南郭
白山神社(砦跡)
【歴史・沿革】
新潟県長岡市にあった山城。与板城(長岡市)の前身に当たる城であることから本与板城とよばれる。山城とはいえ、比高60mほどの丘陵端につくられた城で、中央に本郭、その西側の二ノ郭、三ノ郭ほか、南側にも郭を配した城で、それぞれの郭には土塁が築かれ、堀切で区切られていた。

もともとは建武元年(1334)に新田義顕一族の籠沢(小森沢)入道が築城した城とも伝えられているが、築城年代などの詳細はわかっていない。

その後、越後守護上杉氏の重臣・飯沼氏が居城としていたが、越後永正の乱の渦中の永正11年(1514)に、城主の飯沼定頼は守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に攻められて滅亡した。

その後、天文15年(1546)頃に上杉謙信の右腕といわれた直江実綱(その後、大和守景綱を名乗る)が居城とした。実綱の死後、上野国(群馬県)の総社長尾氏から養子に入った信綱が直江氏を継いだが、天正6年(1578)の御館の乱後、上杉景勝家臣の樋口与六が直江氏を継いで直江兼続を名乗った。兼続は慶長3年(1598)の上杉景勝の会津移封に際して米沢30万石を与えられ米沢城(山形県米沢市)に入城している。

この間、直江氏は本与板城の南方約2kmに与板城を築き、居城を移している。天正年間(1573〜93年)に直江景綱が与板城を築いたともいわれるが、その築城と移転の時期は諸説あり、現在のところ確定していない。また、与板城完成後も本与板城は破却されず、城として活用されたともいわれるため、本与板城がいつごろまで存続していたのかについても不明である。しかし、景勝の会津移封、兼続の米沢移封に伴って与板城とともに廃城になったか、それ以前に廃城になったかのいずれかである。

現在、城跡には土塁、堀、虎口、井戸、畝状阻塞などの遺構が残っている。
JR長岡駅からバスで与板警察署前下車、徒歩約30分(本与板城登山口まで)。
(参考文献:日本の城がわかる事典)

【感想】
直江氏が与板城へ移る前に居城していた城といっても本与板城も機能していたため二城でこの地域を治めていたのでしょうね。
それにしても城と関係のない万歳閣は紛らわしいですね。一応説明書きがあるので読めばわかりますが・・・まぁそれもこの本与板城の歴史なのでしょう。

登城日 2016年05月01日(日)
LINK 長岡市HP-本与板城跡-
Wikipedia-本坂戸城-
城主家紋 【亀甲に花菱】
(神氏流)
直江氏家紋
【三つ亀甲に三葉】
(藤原麿流)
直江兼続使用家紋

         

  
探訪

※本与板城登城口にあった案内説明板より(加筆有り)
【本与板城登城口・遠景】 【@登城口と堀切跡】
左の登城口から道なりに進んでくると駐車スペースがありそこに本与板城のパンフレットが置かれています。
その先にこの場所があります。左は実城側の登城口右側は白山神社側へと続く道がありその間を通る道は堀切跡になります。
【万歳閣指標】
【万歳閣跡】(城と関係のない建物)
ここには昭和の始め頃まで、万歳閣・護国殿をはじめ七堂伽藍が建っていました。万歳閣は、日清戦争における戦死者の慰霊仏二体が安置されていましたが、火災により昭和6年に焼失してしまいました。
【徳水社】(城と関係のない建物) 【A南郭跡】
【B横堀】 【C堀切】
実城と二ノ郭との間の堀切(大空壕)
【D井戸跡】
堀切の先は崖になっており井戸跡はよくわからなかった。
【E実城(本丸)跡】 【城址碑1】 【城址碑2】
【実城の土塁】 【精霊院跡】 【実城東側堀切と紫雲閣跡】
【F堀切】
二ノ郭と三ノ郭間の堀切
【F堀切】
左の階段を上ると開けます。
【G二ノ郭跡】
【二ノ郭の土塁】 【H三ノ郭跡】 【I二重堀切】
【J虎口】 【虎口の土塁】 【K虎口西側の郭(仮称:西郭)跡】
与板城で見られた兵溜(千人溜)のような空間。
【@登城口の反対側】
直江屋敷(御館)跡、お船の方誕生の地碑方面へ
【平場】 【L切通しの堀切】
この先に直江屋敷(御館)跡、お船の方誕生の地碑碑のある光西寺方面へと続く。
【M白山神社(砦跡)】
この場所は本与板城の出丸(砦)があった所です。
【N堀切】 【円満寺】



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