城名 栃尾城(別名:舞鶴城、大野城)
住所 〒940-0236
新潟県長岡市栃尾大野町
入場時間
入場料
指定文化財 県指定史跡
城郭構造 並列式山城
天守構造 なし
築城主 芳賀禅可(伝)
築城年 南北朝時代(14世紀後半頃)
主な改修者 本庄氏
主な城主 本庄実乃、本庄秀綱、清水内蔵助、神子田政友
位置 北緯37度28分20秒
東経138度59分15秒
地図 本丸跡
二ノ丸跡
三ノ丸跡
千人溜り跡
狼煙台跡
【歴史・沿革】
新潟県長岡市(旧栃尾市)にあった中世の山城。新潟県指定史跡。
戦国時代の越後の武将本庄氏の居城。旧栃尾市街西側の鶴城山(標高227.7m)の山頂に築かれていた城郭である。山頂の本丸と二の丸を中心として、北の尾根に松の丸・三の丸、五島丸、南の尾根に琵琶丸・中の丸などの多くの曲輪を馬蹄形に配置した縄張りを持っていた。松の丸と三の丸の間には、長さ300mにおよぶ大空堀が走り、栃尾城の最大の特徴・見どころとなっている。

栃尾城は、永正年間(1504〜21年)に古志長尾氏が蔵王堂城から栖吉城に移った際、在地土豪支配のための支城として整備され、本庄実乃が城代として配置された。以降、代々、本庄氏が居城としてきた。

天文5年(1536)8月、長尾為景(上杉謙信の父)は嫡子晴景に家督を譲り、天文12年(1543)に他界した。家督を継いだ晴景は国人領主の反乱を鎮圧できず、春日山城下の林泉寺にいた14歳の弟・虎千代(長尾景虎、のちの謙信)を還俗させて栃尾城に配置した。虎千代はこの城を拠点に、三条城主・長尾俊景らの攻撃を退けたが、この一連の戦いが謙信の初陣だったといわれる。

謙信は、この武勇から揚北や越後中郡の諸将の支持を得たが、これに危機感を抱いた兄晴景と対立。晴景は栃尾城の景虎征伐の軍を興したことから両軍の戦いとなり、米山合戦で勝利を収めた景虎は晴景が居城としていた春日山城に迫った。こうした中、調停が行われ、景虎は兄晴景に代わり越後守護代となり、その居城を栃尾城から春日山城に移すことになる。このとき、栃尾城主の本庄実乃も春日山城下に移り、栃尾城には本庄玖介、宇野左馬充が栃尾城代として配備され、栃尾衆が編成されている。

天正6年(1578)の謙信死後、その後継をめぐって、上杉景勝・景虎の2人の養子が争った御館の乱では、城主の本庄秀綱は三条城の神余親綱らとともに景虎方に与し、景勝と争ったが、天正8年(1580)4月、景勝方の軍勢の攻撃を受け、秀綱は会津へと落ち延び、そののち栃尾城は落城した。
栃尾城が陥落後、景勝は栃尾に上田衆を配備、佐藤甚助忠久を栃尾城主に任じた。

慶長3年(1598)の景勝会津移封にともない、越後には堀秀治が入封したが、栃尾城には神子田長門守が入城した。栃尾城は慶長15年(1610)の堀氏改易にともなって廃城となった。

現在、城跡には曲輪、堀切、竪堀、土塁、狼煙台、井戸跡などの遺構が残っている。
JR長岡駅からバス中央公園前下車徒歩5分で諏訪神社がある三光口へ。諏訪神社の裏手に登城口がある。
(参考文献:「日本の城がわかる事典」)


【感想】
上杉謙信が戦国武将として最初に入ったのがこの栃尾城。それだけでも感慨深い城なんだが、登城していくと馬出などはないが曲輪ごとに堀切で区切られ、本丸の堅固さといったら他では見られないほどの切岸の高さ。やはり下には城道が通り攻めてきた敵は上から丸太や岩など落されたら下まで落とされたのだろうと想像できる。
ただ残念だったのは登ってすぐにある金井曲輪が八幡社までは確認できたがその先が田んぼになっていたので曲輪だと思わず、その先にある後藤曲輪を見逃してしまったこと。謙信公の座像も見逃してしまっているし、再度来訪したいお城です。



登城日 2016年05月02日(月)
LINK 栃尾観光協会-栃尾から見たもう一つの天地人-
Wikipedia-栃尾城-
城主家紋 【竹輪に二羽飛び雀】
(桓武平氏秩父氏流)
本庄氏家紋

                      

  
探訪

※栃尾城パンフレットの案内図より(加筆・修正あり)
【栃尾城跡遠景】 【@三光口(大手口)】
諏訪神社の参道が城址への入口となる。他にもいくつかある。
【三光口にある城址碑】
【A諏訪神社社殿】 【諏訪神社社殿横にある案内図】
金井曲輪と後藤曲輪の位置が逆になっている。
【登城口】
【B金井曲輪跡・八幡社】 【C後藤曲輪】
作業小屋の奥、田圃になっている部分の先が後藤曲輪。作業小屋を迂回するかのようにある登城道を通ったので詳細は見られず。
【竪堀】
【登城道】 【分岐点1】
他の登城口(石動神社(岩神口))との合流点。右手が実城方向。
【D馬場(馬責め場)跡】
軍馬の訓練が行われたところで、広さ2,900uあり、隅には池の跡があります。
【E馬洗い池跡】
馬場の奥に入ると方形型の窪地があり、これが馬洗い池跡と思われる。
【馬場の城塁(段差)】 【城道】
右手に大壕の看板がある。
【F大壕(大空壕)】
この大壕は山頂の松ノ丸にまで及ぶ長大なもので、口幅15m、深さ7m、長さは300m程もあります。防戦用として重要な役目をもつとともに、山頂への通路としても使用されました。掘った土を左側に土塁として積み上げ壕が深くなるように工夫されています。
【F大壕(大空壕)】
形状は箱掘。
【G千人溜り】
3,000uに及びこの平地は栃尾城の大広場であったと考えられ、将兵の訓練などが行われたものと思われます。
【G千人溜り】 【段郭群】
千人溜から実城下付近までいくつもの腰曲輪が形成されている。
【水飲み場】
段郭群の左手に水飲み場がありました。コップも置いてあるので飲めるのでしょうね。
【I実城の切岸】
H金銘泉のある場所の上がJ本丸でその切岸の高さは20mはあると思われる。
【残雪】
GWにこんな場所で残雪が見られるとは思いもしませんでした。そのため周囲は雪解け水や湧き水でぬかるんでいました。
【H金銘泉】
【H金銘泉】
今も水をたたえる栃尾城の水源の一つ。
【I実城の切岸】 【城道】
【分岐点2】
本丸と岩の鼻橋への分岐点。登城してきた場所からかなり南に下りてしまうようです。
【本丸への城道】
本丸を目指します。
【本丸と二ノ丸の間の曲輪】
左手が二ノ丸、右手が本丸になります。
【分岐点3】
写真の指標では本丸と二ノ丸しか表記は有りませんが直進し下に下りる道もあります。直進し下に行くとトイレもあります。
【J本丸跡】
本丸は弓なりの状の細長い郭で東西(写真の左右)は垂直に切り出した大切岸になっている。
【本丸に設置されたクマ除けの鐘】
観光用ではありませんので^^;
一応鳴らして城を堪能しましょう。
【本丸の説明板】 【本丸の祠】
祠に蛇がいました。栃尾城の守り神でしょうかねw
【祠の蛇】
中に入っちゃいました^^;
【本丸北側の堀切】
深さがあり上からでは下は見えません。
【本丸東側眺望】
眼下に謙信公の座像が置かれている秋葉公園が見えます。
【K銀銘泉跡】
本丸から二ノ丸へ向かう途中にある。現在はトイレの水をタイマーで汲み上げているようで、ポンプが稼働していました。水が満タンだと近くに排出され、その水の音がボコっと音がします。最初は何の音かとびっくりしました。
【二ノ丸虎口】 【L二ノ丸跡】
二ノ丸跡は石動神社の奥の院にもなっているようです。
【L二ノ丸跡】
【石動神社奥の院】
二ノ丸跡の中央にあります。この祠の裏側が段差になっており、二ノ丸が二段構成になっていることがわかります。奥に行き中ノ丸、琵琶丸などを見ようとしましたが木々と堀切で先に進めませんでした。
【山上のトイレと分岐点4】
本丸と二ノ丸の間の曲輪から直進すると下方にトイレがあることがわかる。そしてこのトイレを挟んで左右に道があります。左に行けば狼煙台方面へ(狼煙台への表示はこの場所にはありません)、右に行けば三ノ丸方面へ行くことが出来ます。
【狼煙台方面へ】
【分岐点5】
ここでようやく狼煙台の文字が出てきた。
さぁ行きましょうw
【M中ノ丸跡】
上に行くのが大変そうだったので下からのみ。
【堀切】
中ノ丸と琵琶丸の間の堀切(箱掘)。
【N琵琶丸跡】
何の表記も見当たりませんでしたが、ここが琵琶丸跡。
【N琵琶丸跡】
傾斜の緩い場所があったので登ってみたが、琵琶丸を示す表記はなかった。それにしても藪です。
【空壕跡(堀切)と土橋】
琵琶丸西側の堀切。
【空壕跡(堀切)
琵琶丸西側の堀切。
【O狼煙台詰郭跡(馬つなぎ場跡)】
現在の標柱の表記は「狼煙台詰郭」だが、昔は「馬つなぎ場」だったようです。
【大空壕跡(堀切)と土橋】
詰郭から狼煙台の間にある堀切1
【大空壕跡(堀切)と土橋】
詰郭から狼煙台の間にある堀切2、堀底より
【P狼煙台跡と米山薬師碑】 【山上のトイレ】
このトイレにはセンサがついていますので前を通るだけでバンって電源が入る音がします。でもこのトイレ外側に扉ないんだけど熊とか大丈夫なのかしら?
センサで電気が点くからよいのかな?
【本丸北側の堀切1】
堀底道となっている。
ここから本丸は木々が多く見えませんでした。
【本丸北側の堀切2】 【Q松ノ丸跡】
【O松ノ丸跡】 【F大壕(大堀切)】
この大壕が下の馬場の方まで続いている。
【R三ノ丸跡】
【堀切】
三ノ丸と五島丸の間の堀切
【S五島丸跡】 【五島丸北側堀切】
【北端の郭】 【北端の郭にあるクマ除けの鐘】
この場所にもありました^^;
【北端の郭から北に延びる城道】
何処に出るかわからず、戻りました。



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