城名 栖吉城(別名:鎧山)
住所 〒940-0821
新潟県長岡市栖吉町
入場時間
入場料
指定文化財 県指定史跡
城郭構造 梯郭式山城
天守構造 なし
築城主 長尾孝景
築城年 永正年間(1504〜1521)
主な改修者
主な城主 古志長尾氏、河田氏
位置 北緯37度25分27秒
東経138度54分32秒
地図 主郭跡
二ノ郭跡
三ノ郭跡
詰ノ郭跡
本庄清七郎の墓
【歴史・沿革】
新潟県長岡市にあった山城で、戦国時代の古志長尾氏の居城。
同市街東方にある城山(通称鎧山)の山頂(標高335m、比高約270m)に築かれ、その城域は東西約600m、南北300mと、新潟県内の中世の城の中では規模の大きい部類に入る城郭である。

永正年間(1504〜21)に古志長尾家の長尾孝景が築城し、古志長尾家の本拠を蔵王堂城から、この城に移したといわれているが、築城年代ははっきりしていない。

永正7年(1509)、関東管領の上杉顕定は、越後守護の上杉房能を襲撃して自刃させ上杉定実を新守護に擁立した守護代の長尾為景(謙信の父)を攻めたが、翌永正8年(1510)、為景は反攻して長森原の戦いで顕定を敗死させた。栖吉城主の長尾房景はこの顕定の報復時、為景方から顕定方に
転じて蔵王堂城を攻めたが、のちに再び為景方に転じた。

その後、房景あるいは長尾顕吉の息女(虎御前・青岩院)が長尾為景に嫁ぎ、虎千代(長尾景虎、のちの上杉謙信)を生んだ。14歳になった景虎は、兄・晴景の命により栃尾城(長岡市)に入城するが、同城は栖吉城の有力支城の一つだった。のちに、景虎は栖吉城の古志長尾氏をはじめとする越後有力武将を味方につけ、兄晴景を追って国司の座につくことになる。こうしたことから、景虎が上杉姓を襲名して関東管領になると、栖吉城主の長尾景信は上杉姓を許され、謙信の直太刀衆の筆頭となった。

天正6年(1578)、謙信の死後、その後継者をめぐって御館の乱が起こったが、このとき、景信は小田原北条氏から謙信の養子に入った上杉景虎を支持した。これはもう一方の養子の上杉景勝が上田長尾氏の出身で、坂戸城(南魚沼市)の上田長尾氏を背景としていたため、その対抗上、景虎方に与したといわれる。景信は同年6月11日、景勝方との戦い(居多浜の合戦)に従軍し、討ち死にしたといわれる。ただし、戦死したのは景信ではなく、その子景満(信虎)だったとする見方もある。こうして古志長尾氏は滅んだが、その後、栖吉城は上杉景勝の属城となり、河田長親の子、岩鶴丸が城主に任じられ、古志長尾氏の遺臣(古志衆)を栖吉衆として再編した。その後、河田氏が途絶えると、遺臣の古志衆が番将をつとめたといわれる。しかし、慶長3年(1598)、上杉景勝が会津に移封になると、栖吉城は廃城となった。

現在、城跡には曲輪、土塁、堀切、竪堀、畝状阻塞などの遺構が残っている。
JR長岡駅からバスで栖吉中央下車7,8分程度で登城口。城山(鎧山)麓の栖吉神社と普済寺の2ヵ所に城山の山頂に至る登城道がある。
(参考文献:「日本の城がわかる事典」)

【感想】
造りとしては主郭と詰郭に分かれた一城別郭の造りとなっている。この別郭を構成するための大きな堀切などが一番の見どころに違いないのですが木々が生い茂り藪化となり立ち入ることが出来ない状態だったのが残念である。八方台へ向かう道で反対側からと行ってみましたがやはり入ることが出来ませんでした。

登城日 2016年05月03日(火)
LINK ながおかweb再発見-栖吉城跡-
Wikipedia-栖吉城-
城主家紋 【九曜巴】
(桓武平氏良文流)
古志長尾氏家紋
【三つ巴】
(藤原南家工藤氏流)
河田氏家紋

                      

  
探訪

※主郭説明板縄張図より(縄張図北を上にし、加筆あり)
【栖吉城跡遠景】 【栖吉神社参道】
栖吉神社の裏手が登城口の一つになっています。
【栖吉神社の石段】
【栖吉神社】 【栖吉神社・削平地3段目】
栖吉神社の境内は栖吉城の出城跡とされてり、三段の削平地で構成されている。
【栖吉神社・削平地2段目】
【栖吉神社社殿・削平地1段目】 【堀切】
栖吉神社と城山の間に堀切になっている。堀切の箇所に駐車スペースがあります。
【堀切から見た栖吉神社(出城跡)】
【登城口】 【登城道】
緩急ある坂道を登っていきます。
【分岐点1】
左に下っていくともう一つの登城口普済寺へと続いています。帰りはそちらを通ることにします。
【@本庄清七郎の墓】
清七郎とは?と思いましたら秀綱の幼名でした。
【分岐点2】
上に進むと本丸方面へ、下を進むと八方台方面へ。
【A連珠砦跡】
砦跡とは思えない斜面に標柱が置かれています。この標柱の手前に畝状阻障があります。。
【畝形阻障】
下から見た状態。
【畝形阻障】
中に入ってみた状態。
【畝形阻障】
上から見た状態。
【登城道】 【B虎口】
ここを進むと左手に三ノ郭があり、その土塁に沿って進むことになる。三ノ郭からの側面攻撃を受けつつ進むわけです。
【C三ノ郭土塁】
【C三ノ郭跡】 【C三ノ郭土塁】 【C三ノ郭跡】
【D堀切】 【D堀切と土橋】 【D堀切と土橋】
【土橋】 【二ノ郭虎口】 【E二ノ郭跡南側】
【E二ノ郭跡】 【F横堀】
二ノ郭と主郭の間にある堀。
【E二ノ郭・北側】
【F横堀】 【G主郭前・枡形虎口(馬出)】 【主郭虎口】
【主郭】 【主郭・標柱と説明板】 【I堀切】
主郭東側の堀切。
【I堀切とJ腰郭】 【I堀切】 【J腰郭上段】
【J腰郭の段差(城塁)】 【J腰郭中段】
中段から先は藪がひどく立ち入れなかったため、分岐点2まで引き返します。
【分岐点・八方台方面へ】
【城道】
右側は谷になっている。左側に主郭や腰郭があるのだが木々により見えませんでした。
【K腰郭】 【L木戸跡1】
【M堀切】 【M堀切】
堀切を登ると左手に腰郭、右手は詰郭の切岸になります。
【N腰郭】
【M堀切と詰郭の切岸】 【L木戸跡2】 【O連続する堀切】
【O連続する堀切】 【【O連続する堀切】 【O連続する堀切】
【普済寺へ向かう登城道】 【牧野忠成公墓所を示す指標】 【牧野忠成公墓所入口】
【牧野忠成公墓所】
長岡藩初代藩主の墓
【普済寺・鐘楼】 【普済寺・本堂】
【普済寺・】山門】 【普済寺】



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