城名 鹿沼城(現在:御殿山公園)
住所 〒322-0068
鹿沼市今宮町1666-1
入場時間
入場料 無料
指定文化財
城郭構造 平山城
天守構造 不明
築城主 鹿沼権三郎入道教阿
築城年 1292年
主な改修者 壬生綱房
主な城主 鹿沼氏、壬生氏
位置 北緯36度34分2秒
東経139度44分36秒
登城日 一回目:2008年12月30日(火)
二回目:2021年12月30日(木)
LINK 鹿沼市観光だより
鹿沼市-Wikipedia
城主家紋 【三つ巴】
(小槻氏流
/宇都宮氏の一族か)
壬生家家紋
【概要】
鹿沼城は1292年、日光二荒山神社にある有名な灯籠、唐銅の灯籠を奉献した豪族、鹿沼権三郎入道教阿は坂田山の山頂に館を構え、居住地としたとみられる。当時、鹿沼は源頼朝が日光山に寄進したと伝えられる66郷の一つで、鎌倉と日光山との因縁が深かった。
1523年、当時この地方切っての豪族だった鹿沼綱勝が宇都宮氏とにらみ合いとなり、宇都宮忠綱の軍と合戦、鹿沼勢は敵の豪将、山野井称監を討ち取ったが、大将の鹿沼綱勝が戦死、鹿沼城は落城した。
鹿沼氏を滅ぼしたことで宇都宮氏は日光領を掌握し、鹿沼城は壬生綱房に与えられる。壬生綱房は、坂田山館を出城とし、東側の御殿山を中心に戦国城郭に改修し、本拠とする。
後に壬生氏の統帥として鹿沼城に入った壬生義雄は天正18年(1590)、小田原の役で北条氏に味方し小田原籠城するが、その間宇都宮、佐竹、結城勢に攻められて落城し、壬生氏も滅亡、城も廃城となる。

【感想】
ここは実家のすぐそばで小さい頃はここで野球をやっていました。弓道場でも高校時代合宿してました。お城ということは知っていましたが当時は興味があまりなかったのでしょうね。堀の存在さえも知りませんでした。

【情報】
2008年鹿沼城の麓に現在中央小学校の校舎移築に伴い発掘調査が行われた。
そこは壬生氏の屋敷跡ということがわかりましたが、遺構は埋め戻され、その上には新校舎が建てられました。

2020年6月、鹿沼市役所の市庁舎建築に伴い、三ノ丸跡で現駐車場部分の発掘調査が行われた。
その調査により、曲輪や堀跡の一部を確認、曲輪内には井戸や多くの柱穴が確認され、カワラケや内耳鍋が出土されました。その中でも栃木県下初となる障子堀が発見されました。
しかし、残念ながらこの遺構も埋め戻され、この上に新庁舎を建てるそうです。せめてこの上をガラス張りの床にして見えるように保存してくれないだろうか。

現地説明会に参加された方から写真を使用しても良いと許可をもらいましたので探訪に載せています。

                      

探訪
【説明板】 【城址碑】
2021年11月に建立
【東側の曲輪】
現在はテニスコートになっているが鹿沼城の曲輪の一つと考えられる。
【本丸土塁】
写真左手が二の丸になる。現在は駐車場になっている。
その外に二の丸土塁がある。
【本丸跡】
現在、本丸は野球場となっている。
【櫓跡】
【南側二の丸登城道】
弓道場のある場所が三の丸。三の丸から右手に行くと空堀が姿を現す。
【二の丸土塁と南側横堀】
【南側横堀】
この箇所は往時を偲ぶことができる。
【南側横堀】
結構大規模な横堀である。
【櫓跡】
空堀の折れ部分に突き出している。
【土塁上部】
左側が南側横堀、右手にも藪で覆われているが空掘りになっている。二重の堀がここにある。
【土塁上部】
正面奥と右側に堀がある。
【太夫殿跡】
本丸より一段高い場所にあり、一番高い場所となる。
【太夫殿跡】
現在は忠霊塔が置かれている。
【太夫殿西側の堀】
横矢構造の堀、西端近くで切れ、その先は台地下まで落ち込む断崖となっている。
【坂田山城址】
鹿沼城の西側にある城址で出城と考えられる。
現在は住宅分譲地となっている。
【鹿沼城と坂田山城の間道】
昔はこの間道はなく、鹿沼城本丸と坂田山城が同程度の高さで繋がっていたと思われる。
【北側本丸土塁】
北側から西側は犬走り程度の小道しかない。
左手下は崖になる。
【今宮神社】
鹿沼城の下にあり、壬生義房が天文元年(1533)御所の森から「今宮権現」を城内に歓請した。
【能楽堂】
今宮神社敷地内
【壬生義雄の墓】
鹿沼市西鹿沼町にある雄山寺にある。
【壬生義雄の墓】 【墓左側】
「天正十八年七月八日於 小田原城中戦死」と刻まれている。
【墓右側】
「壬生上総介義雄の墓」と刻まれている。
探訪〜2020年6月7日 現地説明会〜
【発掘調査現場(三ノ丸跡)】
鹿沼市役所の駐車場の下から発見された障子堀
【障子堀】 【障子堀】
【障子堀】 【出土品】
壬生氏の家紋である三つ巴の紋が描かれている。
【出土品】




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