城名 | 壬生城(別名:馬蹄城) | |||
住所 | 〒321-0225 栃木県下都賀郡壬生町本丸 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 壬生綱重 | |||
築城年 | 文明年間(1469〜1486) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 壬生氏、結城氏、日根野氏、阿部氏、三浦氏、松平氏、加藤氏、鳥居氏 | |||
位置 | 北緯36度25分39秒 東経139度47分52秒 |
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【歴史・沿革】 壬生城は、室町時代の半ばの文明年間(1469〜1486)に壬生綱重によって築かれたと云われ、 各地の大名が勢力を競っていた戦国の世にあって、約100年間もの間、壬生氏の主要な城であった。 しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐の時に、後北条氏に味方をしたため、滅亡した。 慶長6年(1601)からの110年間は、日根野氏(1万石)、阿部氏(1万石)、三浦氏(2万石)、松平氏(4万2千石)、加藤氏(2万5千石)とめまぐるしく城主が代った。そして正徳2年(1712)鳥居忠英が近江水口から移ってからは、明治維新を迎えるまでの160年間、鳥居氏(3万石)が代々城主となった。 江戸時代の記録によると、壬生城は、本丸・二の丸・三の丸・東郭・下台郭・正念寺郭の6つの郭からなり、これらの郭は土塁・ 堀で囲まれていた。又、天守や櫓といった建物は建てられていなかった。本丸は約140m四方の大きさで、南と北に門があり、土塁の上には塀がめぐっていた。又、本丸内部には御殿があり、江戸時代の初めには、将軍の日光社参の宿舎として使われた。 現在、本丸址も、その南側を残すのみとなったが、平成元年に城址公園として整備され、県内に残る数少ない近世城郭の1つとなっている (「説明板」より) 【感想】 すっかり公園として整備されてしまっているため当時の面影がない。説明板に公園化になる前の堀と土塁の写真が記載されている。堀は屏風折れ(横矢掛り)があり少し城の腑に気が味わえる。 また近くには精忠神社がありこちらも見ておくとよい。 |
登城日 | 2016年08月16日(火) | ||
LINK | とちぎなび-壬生町城址公園- | |||
Wikipedia-壬生城- | ||||
城主家紋 | 【三つ巴】 (小槻氏流/宇都宮氏の一族か) 壬生氏家紋 |
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【竹に宿り雀】 (熊野権現神職後裔) 鳥居氏家紋 |
【壬生町城址公園入口】 | 【壬生城本丸址説明板】 | 【本丸堀跡】 |
【本丸虎口跡】 | 【本丸堀跡】 折れになってる。 |
【壬生領榜示杭(石標)】 江戸時代に領地の境界の印として立てられた石や木の柱のこと。 |
【本丸土塁跡】 | 【本丸土塁上】 | 【屏風折れの堀】 |
【土塁上より見た虎口跡】 | 【本丸土塁上】 | 【本丸土塁跡】 |
【壬生町立歴史民族資料館の飾り壁】 | 【吾妻古墳の玄門石】 | 【吾妻古墳の天井石】 |
【精忠神社】 鳥居氏の祖鳥居彦右衛門元忠を祀っている。 |
【精忠神社拝殿】 | 【畳塚】 鳥居元忠は慶長5年(1600)の関ケ原の戦いに先立ち、徳川家康の命により伏見城を守りました。石田三成方の大軍を引き受け良く戦いましたが、約一ヶ月の攻防の末、伏見城にて自刃しました。 この元忠の忠義を賞賛した家康は、自刃の際の血に染まった畳を江戸城の伏見櫓の階上に置き、登城する諸大名に彼の忠義を偲ばせたと言われます。 その後、明治にいたり江戸城が明け渡されたため、ゆかりの深い現在の地に納められ、「畳塚」と称えその上に記念碑が建立されました。「説明板」より |