城名 水戸城(別名:馬場城、水府城)
住所 〒310-0011
茨城県水戸市三の丸
入場時間 弘道館
開館時間
2/20〜9/30 午前9時〜午後5時
10/1〜2/19 午前9時〜午後4時30分
休館日:12月29日〜12月31日
入場料 弘道館
大人400円、小人・70歳以上200円
指定文化財 国特別史跡(弘道館)、茨城県史跡
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし(御三階櫓・独立式層塔型三重五階(1766年再)非現存)
築城主 馬場資幹
築城年 建久年間(1190〜1198年)
主な改修者 佐竹義宣、徳川頼房
主な城主 馬場氏、江戸氏、佐竹氏、徳川氏
位置 北緯36度22分30.54秒
東経140度28分44.17秒
100名城
スタンプ

スタンプ
設置場所
弘道館料金所窓口
登城日 一回目:2009年2月15日(日)
二回目:2020年5月4日(水)
LINK  財団法人 水戸観光協会
水戸城-Wikipedia
城主家紋 【五本骨扇に月丸】
(清和源氏義光流)
佐竹家家紋
【徳川葵】
徳川家家紋
その他
【概要】
水戸城は、建久4年(1193)、源頼朝から地頭馬場資幹(ばばすけもと)がこの地を賜り、大掾(だいじょう)に任じられたのに始まる。以後、馬場大掾氏は九代約240年間、下の丸(現水戸一高運動場)のあたりに居館を構えた。次いで那珂道辰(なかみちとき)の子孫、河和田城主江戸道房が大掾満幹(みきもと)の留守に水戸城を占拠、それ以来七代、165年間、江戸氏が支配した。当時は内城、宿城と浄光寺の三つの曲輪より成り立っていた。
天正18年(1590)太田城の佐竹義宣が江戸氏を討伐、本拠とした。佐竹氏の時代は、慶長7年(1602)義宣の秋田移封までに僅かに13年。この間、内城を古実城と称して本丸化し、宿城を二の丸(現水戸三高・水戸二中・茨城大学付属小)とするなど、曲輪を整えた。城の出入口も東側から西側に移し、橋詰門を建て、またニの丸に大手門などを造った。
17世紀初め、甲府の武田信吉や徳川頼宣が一時封ぜられたが、慶長14年(1609)、家康の十一子頼房が城主となり、その後、徳川氏は江戸定府ながら光圀(第二代)、斉昭(第九代)を経て秋武(第十一代)まで約260年間、35万石の水戸領を治めた。明治4年(1871)廃城。徳川期の本丸には兵器庫、二の丸には三階櫓があった。
水戸一高の前身茨城県尋常中学校がこの地、本丸の城址に新築、移転したのは明治29年(1896)9月、後に水戸中学校となり、昭和20年(1945)空襲で全焼同23年に現在の水戸一高となる。空掘と土塁の一部と復元された橋詰門(薬医門)が城址の名残りをとどめている。


【私見】
遺構はほとんど無いが地形を見ると三の丸二の丸、本丸がよくわかる。見学には水戸城跡通があるのでそれに沿って歩くと道沿いに看板などを見ることができる。
本丸に渡る橋は昔の大堀切に架かっておりここからの景観は昔を偲ぶことができる。この橋を渡ると唯一現存している橋詰門(薬医門)が見えてくる。この門の存在感は圧巻です。

城址から偕楽園までは、反対方向になるのでバスの利用が良い。
歩くと結構な距離でアップダウンがある。

                      

探訪〜2009年2月15日(日)〜
【水戸黄門像】
JR水戸駅北口に設置、もちろん助さん、角さんも一緒です。
【三の丸空堀】 【三の丸小】(講道館の柵門跡)
水戸城三の丸の跡地に建つ小学校。
門と塀が城跡をイメージしています。
【弘道館正門】
本瓦葺四脚門という建築様式で屋根瓦には葵の紋があります。
【通用門と番所】
【正庁正面(東側)】
【正庁南側】 【正庁内にある徳川斉昭公と徳川慶喜公】 【正庁内部】
【正庁内廊下】 【対試場】
武技を競う場所
【正庁間】
藩主が臨席し、文武の大試験、その他の儀式などに用いられた第一の場所です。
・正席(一の間)は24畳、床の間、棚、書院付 ・二の間は15畳、・三の間は12畳、・玄関の間は24畳、床の間付・溜(たまり)の間は12畳と6畳 。各部屋の周囲には広い畳廊下があります。 戦災を免れ、重要文化財に指定されています。
【至善堂】
正庁から広い畳廊下を通って奥に入ると、藩主の休息所であり、諸公子の勉学所であった至善堂があります。ここは奥の御座の間をはじめ4室からなっています。明治元年に最後の将軍徳川慶喜公が謹慎された部屋としても有名です。
【正庁中庭の梅】
【北側井戸】
【正庁西側】
【孔子廟門】
孔子の教えは唐虞三代の道を折衷した最も中正を得た道徳なので、弘道館はその教義を採用するとともに、その廟を安政四年(1857年)館構内に建立し、孔子神社を廟中に安置してその霊を祭った。廟の構造は、大成殿を模した総欅瓦葺、入母屋造り、平屋建ての建物であったが、昭和20年8月の戦災で正門とその左右の土塀を残して焼失し昭和45年11月旧態に模して再建した。
【要石歌碑】
斉昭公自筆の歌文が刻まれた要石の歌碑。
「行く末もふみなたがへそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ 要(かなめ)なりける」
【鹿島神社内井戸】
江戸時代の古井戸。
【八卦堂】
八卦堂は、弘道館公園梅林の中にあり(鹿島神社近く)、
「弘道とは何ぞ」で始まる弘道館建学の精神を記した「弘道館記」の石碑が納めてある。石碑は、見ることができないが、弘道館正庁の間で「弘道館記」の石摺りを見ることができる。
【学生警鐘】
背面には斉昭公の自筆で、
「物学ぶ人の為にと さやかにも 暁告る鐘のこえかな」と書かれている。
ただ工事中が残念でした。
【弘道館の土塁】
【大手橋】
弘道館の正面に水戸城の大手入口がある。
佐竹氏の城郭拡張によって二の丸・三の丸が築かれた時、慶長元年(1596)にこの堀に架けられた橋で、徳川初代藩主頼房が修築してから大手橋と称された。明治元年(1868)10月佐幕派が弘道館を占拠した時は、この橋を挟んで主力軍との間に内戦が起った。橋は何度か修築され、昭和10年(1935)コンクリート造りとなった。
【在りし日の大手橋】
【大手門跡】
大手橋に接してここにあった二階造りの大手門は、佐竹義宣が慶長6年(1601)に建てたものであったが、徳川氏の代になっても水戸城の入口の門で、前に下乗の札、後に番所があった。楼上では太鼓、または鐘を打って知らせたこともあったが、明治初年にとりこわされた。
【在りし日の大手門】
【大手門跡付近に立つ徳川頼房公像】
【大手門跡土塁】 【水戸市立第二中学校内の二の丸土塁】
新校舎建築のため門より見ることができた。
第二中学校は、当時水戸彰考館であった。
光圀公が大日本史を編集した彰考館は、はじめ江戸の藩邸内にあったが、光圀公が西山に隠居したため元禄11年(1698)この地に移されました。

【三階櫓跡】
水戸城は、徳川頼房が寛永2年(1625)に大整備を行った際、この二の丸に広い殿館に付属して三階の物見櫓を南崖近くに建てた。はじめは質朴なものであったが、明和元年(1764)12月の火災で殿館とともに全焼し、ほどなく再建した時、屋根を瓦葺として天守閣らしく鯱を飾り三階櫓と呼んだ。明治5年(1872)の火災では残ったが、昭和20年(1945)8月の戦災で焼失した。
【在りし日の三階櫓】 【祠堂跡】
この地は、朱舜水の祠堂があった所で、朱舜水の没後江戸駒込邸内に建てられたが正徳二年(1712)城下の田見小路に移し、その後城内に祀られた。。
【水戸城跡の大シイ 二株】
水戸城旧城郭の中に位置するこの大シイは、戦国時代から自生していたと伝えられ、その樹齢は約四百年と推定される。
【茨城師範学校跡】
明治7年、小学校の教員養成のため、水戸柵町に拡充師範学校が創立された。その後、校舎は水戸滝岡町(現在の金町付近)に移り、さらに明治21年(1888)この水戸城跡に移転した。明治31年に茨城県師範学校、のちに茨城師範学校と改称し、茨木大学となる昭和24年(1949)まで、茨城県の初等教育に貢献した。
【在りし日の師範学校】 【杉山門跡】
二の丸から杉山通りへ出る門で、四間一尺あった。このあたりの杉は光圀の時代、熊野杉を植えたともいう。
【本城橋】
二の丸跡と本丸跡に架かる橋。
【二の丸と本丸との間の大堀切】
今はこの堀切を利用して水郡線が通っている。
【本丸跡の土塁】
【薬医門(外側)】
この一郭は鎌倉時代に馬場氏が館を建ててから、江戸氏、佐竹氏と城主が変わっても本城(本丸)であった。しかし徳川氏は居館を二の丸に建て、この廓は武器貯蔵庫とした。城門は東端に浄光寺門、中部に中門、現在残る唯一の門は橋のたもとにあった橋詰門(薬医門)のみである。(旧水戸城の現存する唯一の建造物)
【薬医門(内側)】 【板蔵跡】
本丸には、北側に1、南側に2、西側に1、計4棟の板蔵があった。いずれも規模は大きく、城米を保管していたと考えられる。
(看板がなければわかりません)
【角櫓跡】
本丸の南西隅と北西隅には、いずれも二階三間四面の物見櫓があった。(写真は南西角櫓跡)
【柵町坂下門跡】
柵町坂の下にあった門で、この上下門の間に下乗札が立てられ、柵町坂下門の外には下馬札があり、大下馬と称する長屋があった。(写真の坂道は水戸城跡通り)
【義公祠堂(水戸黄門神社)】
光圀公の生誕の地に建てられている。
探訪〜2022年5月4日(水)〜
【二の丸角櫓】
2021年に復元され、水戸駅からもビルが邪魔ですが見えます。
【二の丸角櫓】 【三の丸堀と土塁
【三の丸土塁】 【弘道館の北柵御門】
2019年に復元されました。弘道館には北と南に門があり、教職や役人だけが通行を許され、学生は正門脇の通用門から出入りしていました。
北と南門を入ると、土塁が鍵の手状に折れ曲がる枡形(喰違虎口)になっており、一角に設けられた番所には監視役が置かれました。
【弘道館北側土塁】
【弘道館北側土塁】 【通路】
2019年に復元された弘道館内の通路
【弘道館北柵御門の土塁】
2019年に北柵御門と一緒に復元されました。残念ながら北柵御門の枡形は閉じて復元されています。
【大手門】
2020年に復元されました。
【大手門】 【二の丸土塀と堀跡】
2020年に大手門と一緒に復元されました。
復元されたのですが、狭間が付いていないんですよね。
【大手門】 【大手門枡形】 【二の丸角櫓入口】
学校の間に通路が造られ角櫓を見ることが出来ます。
【二の丸角櫓見学通路】
突き当りの左側には、三階櫓があった場所になります。
【二の丸角櫓】 【二の丸角櫓内部】
【二の丸角櫓内部】 【二の丸角櫓から見た水戸駅方向】 【二中見晴らし台からの眺望】
二の丸の北側一画にある見晴らし台で、眼下に那珂川が確認出来ます。
【杉山坂説明板】
杉山坂は、寛永2年(1625)に初代藩主徳川頼房が行なった水戸城大改修により整備された坂です。この坂は、藩主御殿のあった二の丸に通じる重要な通路でした。
【杉山坂】 【杉山門説明板】
二の丸の北口にあたり、門の内側には枡形が形成されていました。
【杉山門】
2015年に復元されました。
【本城橋】 【本丸堀跡】
【本丸枡形】 【本丸土塁】 【薬医門】
橋のたもとにあった橋詰門(薬医門)を移築。水戸城で現存する唯一の建造物です。
【薬医門】 【薬医門】 【薬医門】
【柵町坂下門】
2015年、坂の途中に復元。
実際は柵町坂の下にあった門で、この上下門の間に下乗札が立てられ、柵町坂下門の外には下馬札があり、大下馬と称する長屋があった。
【柵町坂下門】 【本丸堀跡】
正面に見える橋が、本城橋。
グルメ
ジャンル:郷土料理
店名:食処 飲処 てんまさ
住所:茨城県水戸市宮町2-2-31 三友ビル B1F
   (水戸駅前川又書店地下一階)
TEL:029-224-6460
営業時間:11:00〜23:00
定休日:無休

水戸といったら納豆とアンコウ料理ですよね〜
納豆好きとしては、本場の納豆料理を味わいたくて観光案内所で紹介されたお店に行ってきました。
お店の雰囲気は、居酒屋色が強いが食べ物のメニューが多いので良い感じ。
お店自体は、綺麗とは言えませんが味があります。お店の照明が若干暗く感じました。昼間はもう少し明るいほうがいいのですがね。
料理は美味しかったですよ〜
特にメインではなく、納豆汁が美味でした。

写真右:ねばり丼¥1,050-
写真左:納豆オムライス¥420-




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