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城名 | 佐倉城(別名:鹿島城) | ||
住所 | 〒285-0017 千葉県佐倉市城内町官有無番地 |
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入場時間 | ー |
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入場料 | − | |||
指定文化財 | 市指定史跡 | |||
城郭構造 | 連郭式平山城 | |||
天守構造 | 御三階櫓(独立式層塔型三重四階 1616年 非現存) | |||
築城主 | 鹿島親幹 | |||
築城年 | 天文年間(1532〜1555)? | |||
主な改修者 | 千葉邦胤、土井利勝 | |||
主な城主 | 千葉邦胤、土井利勝、堀田氏 | |||
位置 | 北緯35度43分19.16秒 東経140度13分0.18秒 |
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地図 | 1 | 天守台跡 | ||
2 | 一の門跡 | |||
3 | 二の門跡 | |||
4 | 三の門跡 | |||
5 | 大手門跡 | |||
100名城 スタンプ |
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【沿革】 鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲むように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたため工事は中止。 千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することがなかった。 天正18年(1590)、千葉氏が北条氏とともに滅ぶと、この地は徳川家康の領国の一部となった。慶長15年(1610)土井利勝に佐倉の地を与え、本格的な築城を行わせた。利勝は翌年から工事を開始し、六年間の歳月をかけて元和2年(1616)に城を完成させている。 寛永10年(1633)、土井氏が古河へ転出した後は譜代大名が相次いで入った。歴代佐倉藩主は幕閣の中枢を閉めることが多く老中、京都所司代などに任じられる者もいた。特に延享2年(1746)に入った堀田氏からは幕末に老中を二度務めた堀田正睦らを輩出している。 しかし、明治維新後に廃城令により建物を撤去。その後帝国陸軍歩兵第二、後に第五十七連隊(通称:佐倉連隊)の駐屯地となったため、さらに佐倉城の名残は消し去られてしまった。 1962年3月28日に市の史跡に指定され、現在は跡地の一部に国立歴史民俗博物館が建っている。 【感想】 整備された角馬出しは立派でしたが西側、南側の出丸の土塁の方が魅力がありました。 100名城のスタンプの置き場所である佐倉城址公園管理センターは、わかりずらい場所にあるため探すのが大変ですので確認してからいかれた方が良いでしょう。 |
スタンプ 設置場所 |
佐倉城址公園管理センター | ||
登城日 | 2009年6月20日(土) | |||
LINK | 国立歴史民俗博物館HP |
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佐倉城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【月星(九曜に半月)】 (桓武平氏良文流) 千葉家家紋 ※俗にいわれる星と三日月を組み合わせた「月星」は、江戸時代以降に成立したもののようだ。 |
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【八つ水車】 土井家家紋 |
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【木瓜】 (石餅に竪木瓜) 堀田家家紋 |
【北東堀と両町橋】 | 【田町門跡】 | 【愛宕坂】 |
【臼杵磨崖仏】(模造) 古園石仏大日如来像、大分県臼杵市深田に所在しています。 城址とは無関係。 |
【円勝寺・愛宕神社跡】 城内にあった真言宗の寺院でしたが、明治の廃仏毀釈で消滅しました。奥には愛宕神社があり田町の氏神でもありましたが、連帯建設後は立入が禁止されたため、移転しました。 |
【椎木曲輪】 歴博部分が椎木曲輪と呼ばれる侍屋敷地区で、連帯時代は兵舎がありました。 |
【角馬出し】 二の丸椎木門の前に築かれ人馬の出入りを敵から分からないようにした。 堀の深さは、5.6mあったが復原は3mとしている。 |
【角馬出し】 | 【西側出丸土塁上】 |
【西側出丸】 | 【西側出丸】 | 【西側出丸】 |
【西側出丸の虎口にある門】 江戸期の建造物ではあるが城門ではないと考えられる。 |
【西側堀】 |
【西側堀】 |
【西側出丸の虎口】 | 【帯曲輪(下段)】 出丸間を結ぶ。 |
【南側出丸】 |
【南側堀】 | 【南側出丸内】 | 【南側虎口】 |
【南側堀と南側出丸】 | 【南側の池?】 水がここから湧いていた。 |
【登城道】 二の門跡手前にたどり着く。 |
【二の門跡】 | 【明治初期の二の門】 | 【二の丸】 藩政を執る役所が置かれていた。 |
【二の丸土塁】 | 【台所門(不明門)跡】 本丸の搦手側。 |
【角櫓(三階櫓)跡】 |
【本丸】 | 【天守台】 御三階櫓(天守)が建っていた。 |
【天守台】 2段になっている天守台はめずらしい。 |
【銅櫓跡】 この櫓は、土井利勝が将軍から拝領し、江戸吹上庭内より移築したもので、もとは三層であって、太田道灌が造ったものといわれている。。 |
【明治初期の銅櫓】 |
【本丸の土塁】 |
【一の門跡】 本丸から見てはじめての門で「一の御門」と呼ばれていた。 |
【明治初期の一の門】 | 【佐倉城の礎石】 明治時代初期に陸軍の営所を置く際に佐倉城の建物は壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したのがこの石。 |
【椎木門跡】 門前が馬出しになっている。 |
【明治初期の椎木門】 | 【帯曲輪上段】 |
【茶室三逕亭】 | 【堀田正睦像】 「攘夷」が叫ばれるなか、欧米列強に対抗するには、貿易によって国を豊かにすることが必要であると開国を唱え日本を鎖国から開国に導いた。 |
【タウンゼント・ハリス像】 「日米修好通商条約」締結時のアメリカ総領事。 |
【三の門跡】 | 【明治初期の三の門】 | 【空掘】 |
【三の丸空堀】 | 【自由広場】 三の丸御殿跡。 |
【空掘底】 |
【姥ヶ池】 | 【御三階櫓模型】 佐倉城址管理センター内に展示。 |
【佐倉城復原図】 佐倉城址管理センター内に展示。 |
【大手門跡碑】 | 【大手門跡】 | 【明治初期の大手門】 |
【衛兵所跡】 | 【兵営の便所跡】 | 【佐倉陸軍病院跡】 |
【車道の碑】 大手門から兵営までを物資搬入のため直通させた車道。 |
【佐倉兵営跡の碑】 |
【訓練用の12階段】 兵士が高所から飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段。木製の飛び下り台と違い、壊すのが大変なため、戦後も残ったと考えられる。 |