城名 菅谷館(城)
住所 〒355-0221
埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷757
入場時間 埼玉県立嵐山史跡の博物館
午前9時〜午後4時30分(入館は午後4時まで)
休館日:月曜日、年始年末12/29〜1/3)
入場料 一般:100円、高校生・学生:50円
中学生以下・65歳以上の方は無料
指定文化財 国指定史跡
(比企城館群の一つとして指定)
城郭構造 半輪郭式平城
天守構造 なし
築城主 畠山重忠
築城年

不明(平安末期〜鎌倉初期)

主な改修者
主な城主 畠山氏
位置 北緯36度2分9秒
東経139度19分19秒
【沿革】
菅谷館跡は、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ、中世の重要な遺跡です。
元久2年(1205)武蔵二俣川の合戦の際、畠山重忠は「菅谷館」から出発したと鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」に書かれています。また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると長享2年(1488)に、山内・扇谷の両上杉氏がこの須賀谷原で戦い、戦死者七百人、馬は数百匹が倒れたと記され、館付近の戦いの激しさを伝えています。
現在の遺構は、本郭、二ノ郭、三ノ郭などと、それらを防衛する土塁、空堀などからなり、このような姿になったのは戦国時代のことと考えられています。
(城内案内板より)


【感想】
畠山重忠公が居住していた中世の頃の城址と大きく改修されているため、中世の城郭としてはどの程度の規模だったのかはわからない。
現在の城址の郭一つ一つの規模が大きく、見て回るだけでも結構な時間が掛ります。
城址を周る前に博物館の資料等を見てから周ると、菅谷館だけではなく比企の城の魅力もわかります。
100名城
スタンプ
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設置場所
埼玉県嵐山史跡の博物館
登城日 一回目:2009年7月5日(日)
二回目:2010年5月30日(日)
三回目:2020年8月9日(日)
LINK 埼玉県立嵐山史跡の博物館HP
菅谷館-Wikipedia
城主家紋 【二つ引両】
(清和源氏足利氏流)
畠山家家紋(源氏姓)
【小紋村濃】
(秩父一族)
畠山家家紋(平氏姓)

                      

探訪

※菅谷館パンフレットより縄張図(加筆有り)
【搦手口と菅谷館碑】
この場所は埼玉県立嵐山史跡の博物館の入口になっていますが、搦手口になります。
【二重土塁】
左側がわずかな高まりになっており発掘調査によって土塁であるとわかりました。この土塁は、右側の高い土塁と合わせて二重の土塁となっています。
【泥田掘跡】
現在の熊谷バイパス部分は自然の谷を利用して作った泥田堀で、菅谷館跡の外堀の役目を果たしていました。
【空堀】
土塁に囲まれた部分。
【搦手門と土橋跡】
城の裏門に当たる搦手門があった場所で、門の幅は約4間(7m)ありました。
【もう一つの登城口】
ここは整備用に土塁を切った場所の様です。本来はなかった入口。ここから入って右が三ノ郭になります。
【土塁】
入口付近からみた土塁。
【三ノ郭跡】
搦手門を入って東西に広がる平地が三ノ郭です。この広い郭は武士や騎馬の集合地として利用されていたと思われる。
【蔀(しとみ)土塁】
三ノ郭の西側にあるこの土塁は、西ノの郭から三ノ郭内部の様子を直接見通せないようにつくられたものです。
【正てん門跡】
ここは三ノ郭の出入口で幅が約5間(9m)あります。発掘調査の結果、西ノ郭より約1m高く盛土していたことがわかりました。
【木橋】
正てん門側が西の郭より1m程高くしているため、西ノ郭へ渡した木橋に傾斜をつけ、敵軍の侵入が困難となるように工夫されていました。
【何段にもなった複雑な形状の堀底と高い土塁】
堀跡内には石敷きの跡も見つかっています。
【西ノ郭跡】
西ノ郭の西側には大手門が置かれていましたが、いつ来ても藪化しているため大手門の確認はできませんでした。
【外堀】
西ノ郭を出ると堀があり、現在はすぐそばに住宅が建っています。
【埼玉県立嵐山史跡の博物館】
三ノ郭内に建っています。
三ノ郭東側土塁】
博物館に入らず左に曲がって行くと土塁が続いています。
【三ノ郭東側にある外堀跡】
今は灌漑用水路?になっている。この向こう側は外郭にあたる。
【井戸跡と建物跡】
ここも三ノ郭になります。
【井戸跡】 【建物跡】
建物は2か所確認されました。
【菅谷館模型】
【空堀道】
左側が空堀道。ここは三ノ郭から二ノ郭に通する連絡路と推定されます。この連絡路が幅が狭く、入り組んでいて、敵軍が二ノ郭に簡単に侵入できないよう工夫されている。
【堀跡】
二ノ郭と三ノ郭の間には3.5m〜6mもある土塁により隔てられていました。この部分は復原になり通路になっている。
【二ノ郭跡】
本郭の北側と西側を囲むように配置されています。ここは二ノ郭の東側。
【三ノ郭南側の土塁】
土塁の西側には二ノ郭に入るための木橋が設けられていた。
【土塁南側の堀】 【土塁上】
【畠山重忠公像】
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。
しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられ、一族とともに滅ぼされた(畠山重忠の乱)。
存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。
【土塁北側堀】 【三ノ郭から二ノ郭へ渡る木橋、門跡】
【本郭入口付近に立つ城址碑と案内板】 【本郭堀と土橋】
本郭虎口の土橋が見てわかる。しかし、パンフレットの縄張図にはこの虎口と土橋の記載はない。
【本郭堀】
土橋の東側の堀
【本郭虎口と土橋】 【本郭堀】
土橋の西側の堀。
正面の突き出している土塁部分は出枡形土塁。
【本郭】
現存する菅谷館は戦国時代に整備拡張されましたが、畠山重忠の館もおそらく、この郭の中に作られていたと思われます。
【本郭内の歌碑】
「秩嶺蒼く槻川注ぐ先賢之風山高木長」と書かれている。
【本郭土塁】 【本郭南側堀】
【本郭南側堀】 【本郭南側二重土塁】 【本郭南側二重土塁】
【南郭】 【南郭西側】
通路以外藪化している。
通路左:都幾川・ホタルの里
通路右:二ノ郭
【通路左・ホタル里へ続く階段】
【ホタルの里付近の小川】
都幾川へと続いている。
【通路右・二ノ郭へと続く階段】
二ノ郭と南郭との高低差がわかります。
【二ノ郭西側】
【忠魂祠】 【二ノ郭西側土塁】 【二ノ郭西側】



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