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※マークや道順は大体の位置のため実際の場所とはずれがあります。
城名 松山城(別名:武州松山城、武蔵松山城)
住所 〒355-0100
埼玉県比企郡吉見町南吉見
入場時間
入場料 無料
指定文化財 国指定史跡
(比企城館群の一つとして指定)
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 なし
築城主 上田友直
築城年 応永6年(1399)
主な改修者 上田朝定、北条氏康、松平家定
主な城主 上田氏、難波田氏、扇谷上杉氏、太田氏、桜井松平氏
位置 北緯36度2分16秒
東経139度25分14秒
地図 本丸
二ノ丸
春日丸
三ノ丸
物見櫓跡
【沿革】
松山城は、吉見丘陵の先端に築かれた平山城で東南西の三方が市野川の流域の沼湿地となっていて、自然の要害の場所にありました。市野川に突き出た部分から本丸、二ノ丸、春日丸、三ノ丸が南西から北東に向けて一直線に並び、その両側に多くの曲輪や平場を持っている。また、兵糧庫跡や物見櫓跡なども残されている。
城の規模は大きかったらしく、20万坪(66.7ha)とも三十万坪(100ha)とも言われています。
戦国時代における、この城をめぐる攻防は、まことにめまぐるしく、かつ激しかったようです。というのは、この城は川越や鎌倉方面と鉢形から上州(群馬県)方面へ通じる要衝の地にあり、各部将ともこの城を重要視したため、絶えず争奪戦が繰り返されました。
この城の歴史は古く、古代に、さかのぼるとさえ言われるが、一般的には鎌倉時代末期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉築城説、応永23年(1416)頃の上田上野介築城説などがある。
しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、15世紀半ば太田氏が江戸・川越・岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。
この城が天下に知られたのは、今から約450年前の天文年間から永禄年間のことであり、城をめぐる上杉氏、武田氏、北条氏の争奪戦は有名である。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際、豊臣方の前田利家、上杉景勝らの軍勢に囲まれて落城しました。その後、慶長6年(1601)徳川家康の一族、城主松平忠頼が遠州浜松城に入封され廃城となりました。

この松山城には伝説もあります。
・白米城伝説
 既に貯蓄しておいた飲料水が尽きたことを攻撃側に悟られぬよう、兵糧米で馬を洗って遠目に見る攻撃 側の目を欺いたとされる。

・武田信玄による「モグラ戦法」
 永禄6年(1563)の攻防戦の際、北条軍とともに攻め寄せた武田軍が、鉱業技術者である「金堀衆」を動員 して城山に坑道を掘って爆破作戦を実行しようとしたとする伝説。


【感想】
この城は確かに交通の要衝に建っている。その分この城の造りも立派なもので早々には落ちるものではないと思えました。しかし、大群で囲まれた場合は、ぽっつんとある丘陵だけに後詰がないと厳しいだろう。
城址の曲輪ごとに見事な堀があり、それを見るだけでも価値があります。
また隣接する、岩室観音、吉見百穴も見ると武田信玄のモグラ戦法も本当なのかもしれません。
登城日 2009年10月18日(日)
LINK 埼玉県吉見町役場HP
松山城(武蔵国)-Wikipedia
城主家紋 【釘貫】
(清和源氏小笠原氏流)
上田家家紋
【太田桔梗】
(清和源氏頼光流)
岩槻太田家家紋

                      

探訪
【市野川付近より見た松山城】 【登城口】 【笹曲輪@】
この場所を笹曲輪としている説明板もあるのだが、どちらが本当か不明。上の広沢曲輪の登城口にあった地図ではここが笹曲輪。
【笹曲輪A】
本曲輪と登ってきた登城口の説明板ではここが笹曲輪。
【笹曲輪】
小高くなっている部分が、笹曲輪@、下の部分が笹曲輪A
【竪堀】
本丸の太鼓曲輪の間。
【太鼓曲輪】
ここに太鼓櫓があったのでしょう。
【空堀】
本丸と太鼓曲輪の間。
【本丸跡】
【物見櫓跡】
本丸の東側に突出した場所にある。
【城址碑】
物見櫓跡の場所に建つ。
【空堀】
本丸と二ノ丸の間。
【物見櫓跡】
堀底から見上げたところ。
【空堀】
本丸北側。
【空堀】
二ノ丸側より見た空堀。
【二ノ丸跡】 【空堀】
二ノ丸と春日丸の間。
【空堀】
二ノ丸と春日丸の間。
【春日丸に繋がる曲輪】
馬出機能にも似た造りになっている。
【春日丸跡】 【空堀】
春日丸と三ノ丸の間。
【三ノ丸跡】 【空堀】
三ノ丸と広沢曲輪の間。
【広沢曲輪跡】
【広沢曲輪の土壇】 【広沢曲輪側の登城口】 【曲輪の周囲】
広沢曲輪より横に入ることができたので行ってみると左側は武蔵丘短大になっている。
右側には堀の端が覗きこんでいるその向こうは三ノ丸、春日丸になっている。
【堀の端】 【春日丸】
堀底から春日丸を見上げる。
【本丸北側虎口】
【兵糧庫跡】 【兵糧庫下の平場】
【岩室観音の切通し兼竪堀】
周囲は平場が転々としている。
【切通しと反対側の位置にある平場】
【切通し左側の平場】 【平場の先端】
櫓が建っていたかのような空間。下は吉見百穴に通じる道路になっている。
【岩室観音】
平場先端の下は岩室観音の切通しになっており、建屋の屋根が見える。
【岩室観音の切通し(竪堀)】 【岩室観音】
【岩室観音山門?】 【岩室観音前半部分】
四国四十八か所をここに集約した場所、四十八か所それぞれの観音様が祀られている。一体一体には願い事の札がたくさんついており、一つの願い事を48体の観音様すべてに貼っているようです。その願い事を見ると願った人の気持が伝わってくるかのようでした。
【岩室観音後半部分】
【吉見百穴入口】
大人300円でした。
【吉見百穴横穴群】
国指定史跡、昔の横穴式のお墓。
【地下軍需工場跡】
第二次境大戦下、朝鮮人労働者3,000〜3,500人により昼夜通して突貫で掘られた場所。ここで戦闘機のエンジンなどを造っていたが本格生産の前に終戦を迎えた。公開している部分は10分の1程度。
【地下軍需工場跡】 【地下軍需工場跡】 【地下軍需工場跡】
【ヒカリゴケ】
吉見百穴には、天然記念物のヒカリゴケが自生している。周囲が明るかったのですが、なんとかわかりました。
【吉見百穴横穴群】 【玄室】
一段高い場所に遺体を安置し埋葬した。
【玄室】 【横穴群】 【横穴群】
【岩窟ホテル跡】
よくこんな場所にホテルを造ったなと感心する。




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