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城名 | 箕輪城 | ||
住所 | 〒370-3105 群馬県高崎市箕郷町西明屋ほか |
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入場時間 | − | |||
入場料 | 無料 | |||
指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 梯郭式平山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 長野業尚 | |||
築城年 | 明応・永正年間(1492〜1511)) | |||
主な改修者 | 武田氏、北条氏、井伊直政 | |||
主な城主 | 長野氏、内藤氏、北条氏、滝川一益、井伊直政 | |||
位置 | 北緯36度24分17.82秒 東経138度57分3.45秒 |
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地図 | 1 | 本丸 | ||
2 | 御前曲輪 | |||
3 | 二ノ丸 | |||
4 | 三ノ丸 | |||
5 | 虎韜門跡 | |||
100名城 スタンプ |
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【沿革】 箕輪城は、明応・永正年間(1492〜1511)に長野業尚が築城し、子憲業、孫業政により強化された。 長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世にあくまでも関東管領山内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。 特に、長野信濃守業政は、弘治年間(1555〜1558)から数回に及ぶ信玄の激しい攻勢を受けながらも譲らず戦い抜いたすぐれた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。 業政の死後、子業盛は父の意思を守り将兵一体となってよく戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9年(1566)9月29日、さしもの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至った城主業盛は、「春風に 梅も桜も 散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里」という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏の在城は六十余年である。 武田氏の時代は天正10年(1582)その滅亡によって終り、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。 天正18年(1590)、北条氏滅亡後徳川家康は重臣井伊直政を12万石でここに封して関東最北の固めとし、城下町も整備した。その後慶長3年(1598)直政が城を高崎に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。 【構造】 箕輪城跡の標高は270m、面積は47haに及ぶ丘城(一部平城)である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は榛名沼、東と北とは水堀を巡らして守りを固めている。 城は深さ十数mに及ぶ大堀切で南北に二分され、さらに西北から東南の中心線に沿って深く広い空堀に隔てられた多くの郭が配置されている。 御前曲輪で発見された井戸をはじめとする多くの井戸や祭戸堰用水によって城の用水は完備していた。特に法峯寺郭は、江戸時代の兵書「手鑑」にも引用されているほどにすぐれた用水である。 六ヶ所の「馬出し」や、櫓あとの石垣をはじめ各所に半ば埋もれた石垣も残されている。 【感想】 好きな武将の一人長野業政のお城ということで感慨深いものがありました。今回は大手尾根口から登ったこともあり西側の断崖もよくわかり大堀切の大きさなどから堅城であったことがうかがえました。どこまで長野時代のものが残っているかはわかりませんが、ここで武田勢と激戦を繰り返し、何回も防いでいたんですね。御前曲輪に建つ将兵の慰霊碑に手を合わすとより感慨深いものがありました。 |
スタンプ 設置場所 |
箕郷支所 | ||
登城日 | 2009年11月2日(月) | |||
LINK | 高崎観光協会公式HP |
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箕輪城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【檜扇】 (在原業平後裔?) 上州長野家家紋 |
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【丸に花菱】 (藤原氏工藤氏族) 甲斐内藤家家紋 |
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【丸に竪木瓜】 (紀氏流/伴氏流?) 滝川家家紋 |
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【三つ鱗】 (伊勢平氏流) 後北条家家紋 |
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【橘】 (藤原氏冬嗣流) 井伊家家紋 |
※案内板より(加筆あり) |
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※二ノ丸にあった(長野時代の)復原想像図より(加筆あり) |
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【箕郷支庁】 四谷バス停下車降りてすぐ、ここに100名城スタンプが置いてあります。 |
【箕輪城址入口】 箕輪小学校にあります。 |
【大手尾根口】 登城道の一つで今回はここから登城しました。 |
【大手尾根筋】 | 【腰曲輪】 大手尾根筋に沿ってある。 |
【土橋】 大手尾根筋から曲輪に入る個所で両脇は堀になっている。 |
【大手尾根筋の堀】 | 【分岐点】 土橋を渡れば曲輪の一つ木俣へ、反対に進めば登城口の一つ観音様口へ。 |
【分岐点】 右に行けば木俣へ、直進すれば二ノ丸方面へ。 木俣方向に進むとさらに分岐点があり、登城口である搦手口、榛名口へ抜けることができる。 |
【木俣(屋敷跡)】 この場所に木俣という井伊氏の重臣の屋敷があったので、その名がつけられた。 |
【二ノ丸へ続く登城道】 | 【郭馬出西側虎口】 間口5.8m、奥行3.5mの門跡があり、礎石の配置や石組溝の存在などから二階建ての屋根つきの城門であったと考えられる。 |
【郭馬出】 30m×30m程の曲輪で周りに土手を設け外郭から見えない囲いの中に兵を結集し、土手の西側から一挙に打って出る場所である。 |
【二ノ丸土橋】 二ノ丸へ続く土橋。この両脇は城内最大の堀切がある。 |
【大堀切】 この大堀切によって城は南北二つに区切られ中央にある土橋一つで連絡されている。このように一方を失っても片方だけで戦闘を続けられる仕組みのものを「一城別郭の城」という。 またこの大堀切の土橋付近に土留めの役割を果たす石垣が確認された。西端付近では堀に直交した石垣が堀底に近い部分で確認され両箇所とも6m以上、堀が埋まっているのが明らかになった。 |
【二ノ丸】 二ノ丸は縦横郭80m程の廓で、本丸が持久防御のための廓であるのに対し、これは出撃の拠点である。東は搦手口に、西は白川口、大手方面(大手虎韜門口)へ、南は大堀切土橋から木俣方面へと四方へ出撃できるようになっている。 |
【二ノ丸から搦手方面眺望】 |
【搦手口へ向かう虎口(東虎口)】 北側に行くと本丸へ続く虎口がある。 |
【二ノ丸西虎口】 礎石を用いた門跡(間口2.8m、奥行3.2m、礎石6個)が確認された。門の南側には大堀切に沿って階段状に三段に積まれた石段があった。 |
【二ノ丸西側堀】 | 【三ノ丸】 鍛冶炉や建物の柱跡が多数確認された。炉の周辺からは大量の鉄のかす、火打石、釘などの鉄製品、羽口(熱風を吹き込む口)が出土しました。 |
【三ノ丸西虎口】 | 【三ノ丸門跡と石垣】 入口の三ノ丸門には西側の石垣の上を渡した櫓があり、その下が通路であった。 |
【三ノ丸西側石垣】 城内では最も高い石垣で4mあります。 |
【大堀切】 二ノ丸南側の大堀切が三ノ丸にも伸びており、いかに大きいかがわかる。 |
【鍛冶曲輪】 鍛冶場のあった所で中世の大きな城にはよく見られ、ここで武具などを作成、修理した。 |
【鍛冶曲輪の石垣】 |
【大手虎韜門口】 登城口の一つで、鍛冶曲輪、三ノ丸へ続く。 |
【虎韜門跡】 虎韜とは、中国の兵法書「六韜三略」の虎韜(虎の巻)である。この門こう名付けたのは井伊直政である。ここは大堀切の西端を守る要である。古図によれば南に馬出があった。 |
【本丸堀】 今は堀底が遊歩道になっている。 |
【本丸堀の橋台】 本丸から蔵屋敷に出る橋の脚を立てた台で堀はここで狭くなっている。 |
【蔵屋敷】 この上部が蔵屋敷。 蔵屋敷は備蓄穀物の保管する建物があった場所だと考えられますが、一説によると、いわゆる「辻馬出」の機能を併せ持ち、ここから三ノ丸、通仲曲輪、鍛冶曲輪北方へ出撃するための拠点であったと推定されます。 |
【御前曲輪西石垣】 通仲曲輪・御前曲輪との間の堀に架けられた橋の橋脚部に土留めのために、自然石をそのまま積み上げた石垣(野面積み)です。 |
【御前曲輪北堀】 ここで堀は5つに分かれていた。稲荷曲輪、玉木山、通仲曲輪の三つの曲輪がそれぞれくちばし状にここに集まっている。 |
【御前曲輪】 御前曲輪は本丸の詰めにあり、城の精神的な中心であった。西南の角に物見・戦闘指揮のための櫓があり、その下は石垣で固められている。落城の際、長野業盛以下自刃した持仏堂があったと伝えられている。 |
【箕輪城将士慰霊碑】 武田家との激戦で亡くなった将士を祀っている。 |
【御前曲輪西虎口】 間口、奥行ともに3.1mの門跡(四脚門)が確認された。排水溝に156個の石塔が用いられ、「大僧都」の文字や応永22年(1415)・天文22年(1553)の年代が刻まれたものもありました。 堀の向こう側が通仲曲輪になる。 |
【通仲曲輪】 | 【御前曲輪の井戸】 深さは20mで底から長野氏累代の墓石が多数掘り出された。 |
【御前曲輪の井戸内部】 | 【本丸北側堀】 御前曲輪との間の堀。 |
【本丸北虎口】 北虎口の門は間口5.4m、奥行3.3mで 本丸の三か所の門の中で最大の規模のものだということが確認された。門跡の周囲には101個の四角い石塔で排水溝が造られ、石塔には梵字や15世紀の年号が刻まれているものがあった。 |
【本丸】 多数の「かわらけ」や楽茶碗などが発掘されていることから、城主の住む建物や軍議を開いたり酒宴を催したりする館があったと推定されています。 |
【本丸土塁】 東側からの敵に対して城内が見えないようにしてる。 |
【本丸南虎口】 間口2.6m、奥行2.7m以下と推定され、門に続く石畳が確認された。 また、虎口横には「曲尺馬出」がつき、本丸南部が突出して虎口前を側面から防ぐようになっている。 |
【箕輪城跡碑】 この箇所が本丸南虎口の「曲尺馬出」にあたる。 |
【石垣】 この石垣は、土塁の土が崩れないようにつくられたものです。三段ほどに積まれ堀に沿って長く続いているようです。 石垣の上は、「犬走り」と呼ばれる通路になっています。 |
【本丸西虎口】 西虎口の門は間口2.9m、奥行1.5mで堀の向こうは蔵屋敷です。橋台のあった場所には大量の盛土が行われたことが確認されました。 橋の規模は橋上部の幅2.9m、高さ7.4m、長さ27mであったと推定されます。 |
【本丸堀と西虎口の木橋跡】 この下には先に記述している橋台跡が堀底にある。堀向こうが蔵屋敷である。。 |
【蔵屋敷】 | 【丸馬出】 城の北東部は緩やかな斜面なので、水堀を二重に巡らして備えを固めているが、この方面の敵に対して出撃する溜めの馬出が設けられている。 堀と土手は半円形で南北両側に出入口を開く。このような堀を三日月堀と呼ぶが、丸馬出の残っている例は少なく貴重。 |
【霊木山】 玉木山と書くようである。 霊木山と丸馬出は土橋でつながっていた。 |
【霊置山口】 登城口の一つだが、駐車場からとある施設の狭い脇道を通り抜けると丸馬出付近に出る。(駐車場側からでは左下から右上に進む。) |
【新曲輪】 |
【稲荷曲輪】 この曲輪は御前曲輪より約70m低く、ほぼ三角形で東側の堀は水堀であった。西北端の稲荷社のある稲荷山は櫓台で御前曲輪の北側の堀を通る道を強力に援護している。北に虎口を開き、南は帯曲輪に連なる。 |
【箕輪城北門跡】 現在ここは登城口にはなっていないが、ここに北門があったと思われる。 この先に行くとちょうど史跡境界線がある。 |
【箕輪城搦手口】 長野氏時代から北条氏時代までは、当時の情勢から考えるとここが大手口であって城の南方に城下町が構成された。 井伊氏時代に大手口が南面に設けられからここが搦手口となったといわれている。 |
【帯曲輪】 | 【観音様口】 登城口の一つ観音様の本堂の左裏手に登城道があり木俣付近に繋がる。 |
【観音堂】 |
【水の手曲輪】 城で使用する大切な水の湧き出していたところである。周囲の地形が「箕」のような形をしていたので箕輪の地名もここから起こったという。 この場所の左手に観音様口がある。 |
【蛍峰園】 水が綺麗なため蛍がいるようです。 |
【榛名口】 登城口の一つで城山入口バス停のそばにある。 |