powered by 地図Z ※マークや道順は大体の位置のため実際の場所とはずれがあります。 |
城名 | 岩槻城(別名:白鶴、浮城、岩付城) | ||
住所 | 〒339-0052 埼玉県さいたま市岩槻区太田 |
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入場時間 | ー | |||
入場料 | 無料 | |||
指定文化財 | 史跡 | |||
城郭構造 | 総曲輪式平城 | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 太田道灌説、太田道真説、成田氏説がある | |||
築城年 | 室町時代末 |
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主な改修者 | 後北条氏 | |||
主な城主 | 太田氏、後北条氏、高力氏ほか | |||
位置 | 北緯36度57分4.85秒 東経139度42分36.86秒 |
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地図 | 1 | 時の鐘 | ||
2 | 大手門跡 | |||
3 | 黒門 | |||
4 | 裏門 | |||
5 | 馬出跡 | |||
【沿革】 岩槻城は室町時代末に築かれた城郭です。築城者については太田道灌とする説、父の太田道真とする説、そして後に忍城主となる成田氏とする説など様々です。 16世紀の前半には太田氏が城主となっていましたが、永禄10年(1567)三舟合戦(現千葉県富津市)で太田氏資が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配することになりました。 北条氏は、天下統一を目指して関東へ進出を図っていた豊臣秀吉と対立。やがて天正18年(1590)5月20日からの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落城してしまいました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長が城主となりました。 江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりました。 室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城でしたが、明治維新後に廃城となりました。城の建物は各地に移され土地を払下げられて、およそ400年の永きに渡って続いた岩槻城は終焉の時を迎えました。 岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で元荒川の荒廃湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸、二の丸、三の丸などの主要部が沼地を挟んで北側に新正寺曲輪が沼地を挟んだ南側に新曲輪がありました。主要部の西側は堀によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていきました。また、城と城下町を囲むように大構が造られました。 【感想】 遺構はほとんど残っていませんが、曲輪を囲む土塁と堀はよく残っています。今となっては住宅街になている大手門付近などは地図と照らし合わせながら探して見つかったので、いろいろ歩き回って探すのはおもしろかったです。 |
登城日 | 2009年12月23日(水) | ||
LINK | さいたま観光コンベンションビューロー |
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Iwatsuki散策MAP | ||||
岩槻城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【太田桔梗】 (清和源氏頼光流) 岩槻太田家家紋 |
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【対い鳩】 (桓武平氏熊谷氏流) 高力家家紋 |
※芳林寺説明板より(現在地となっているが芳林寺) |
※城址内説明板より |
※芳林寺説明板より |
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※城址内説明板より(加筆あり) |
【遷喬館】 岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯が武家地にある裏小路の一角に開いた私塾で、後に藩校となった。 |
【座敷・教師控室】 6畳の広さ。 |
【教場】 納戸側より撮影、教場は9畳と15畳に分かれている。写真の奥左手は取次場所で4畳、右は教師控室で6畳。 |
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【渋江口】 城域内に通る日光御成街道がここで90度折れる。 |
【時の鐘】 寛文11年(1671)岩槻城主阿部正春が武家屋敷と町人町の境の出入口の一つ渋江口に設置させた鐘楼。 |
【大手口】 | |
【三の丸堀跡】 岩槻商業高校と宗教団体の敷地内にある。ここのみが堀らしく残る。大手口部分以外は沼地になっていた。 |
【大手門跡】 宗教団体の入口付近にある。 |
【三の丸跡】 三の丸跡に建つ岩槻本丸会館。石碑は道を対角に挟んだ消防署付近にある。 |
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【新曲輪の一角】 イグレッタ(市民会館いわつき)隣の城址公園。 |
【新曲輪の土塁】 写真右側には岩槻城址公園野球場がある。 |
【岩槻城址のケヤキと堀】 土塁を越えると堀がありそこに子のケヤキがある。このケヤキは、県史跡岩槻城跡の新曲輪西側の空堀の傾斜面に生え、目通り4m、根回り6mあり、高さ20mに達する。 |
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【新曲輪の土塁】 左側に岩槻城址公園野球場がある。 |
【黒門】 この門は岩槻城の城門と伝えられる長屋門形式の門である。岩槻城内での位置は明らかではないが、三の丸藩主居宅の長屋門の可能性が高いと思われる。木材部分が黒く塗られていることから「黒門」の名で呼ばれる。 |
【裏門】 この門は岩槻城の城門で形式は薬医門。岩槻城の裏門と伝えられるが、城内での位置は明らかではない。 |
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【鍛冶曲輪虎口】 | 【空堀】 新曲輪と鍛冶曲輪の間の空堀で現在は3m程埋まっている。 また比高二重土塁となっている。 |
【堀障子跡】 新曲輪と鍛冶曲輪の間の空堀のこの個所に堀障子が確認された。岩槻城跡では三基の堀障子が見つかっており、底からの高さ約90cm、幅が上で90cm、下で150cmあり、その間隔は約9mあった。この遺構の発見で、堀が戦国時代の終わり頃に後北条氏によって造られたことなど様々なことが判明した。 |
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【土塁の切れ目から見る八つ橋】 | 【横矢掛り】 この右手の奥上は新曲輪の虎口で馬出となっていた。下の写真がその個所である。 |
【土橋】 ここは鍛冶曲輪の虎口で馬出跡になっている。 |
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【新曲輪碑】 | 【新曲輪虎口・馬出跡】 | 【鍛冶曲輪】 | |
【鍛冶曲輪に建つ城址碑】 | 【沼地跡】 鍛冶曲輪と新曲輪の間にある池で往時は元荒川とつながる沼地であった。 |
【八つ橋】 | |
【新曲輪の堀と土塁】 |
【新曲輪の土塁と沼地跡】 水がある部分はワンパク広場の一角で子供が水遊びできるようになっている。この位置から見ると往時を偲ぶことができる。 |
【愛宕神社】 岩槻城大構の土塁の一部。土塁の上に愛宕神社が建つ。この土塁の向こう側は堀になっていた。現在は東部野田線が通っている。 |
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【芳林寺山門】 | 【太田道灌公像】 太田資清入道道真の嫡男、源六郎資長。後に剃髪して道灌と号した。扇谷上杉定正の家宰として仕え、主家や関東の安寧のためにその知略の才をいかんなく発揮した。しかし、道灌の威徳を恐れた山内・扇谷の両上杉氏により、「謀反の企てあり」として、文明18年(1486)7月26日、相州糟屋の上杉定正の館において謀殺される。享年55才。 |
【太田氏資公像】 岩槻城主太田三楽斉の嫡男。永禄7年(1564)に岩槻城主となる。小田原北条氏に属し、北条氏政の妹を妻に迎え、名を資房から氏資と改める。 永禄10年(1567)8月23日、里見氏との上総三船台の合戦で、北条軍の殿を努め、家臣53騎と共に討死享年25才。 |
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【太田氏資廟】 | 【太田道灌の供養塔】 |
【高力正長公廟】 | |
ジャンル:B級グルメ 店名:レストラン大手門 住所:埼玉県さいたま市岩槻区太田3-1-1 岩槻城址公園 市民会館いわつき 1F TEL:048-758-1122 品名:豆腐ラーメン 感想 今年の埼玉県のB級グルメで優勝したそうです。 埼玉のB級グルメは多いのに… ま〜簡単にいえば辛くない麻婆豆腐が醤油ラーメンの上に乗った感じ何ですけどね。とても優しい味で美味しかったですよ。 |