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城名 国府台城(別名:市川城、鴻之台城)
住所 〒272-0827
千葉県市川市国府台3丁目(里見公園)
入場時間
入場料 無料
指定文化財
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし
築城主 太田資忠
築城年 文明11年(1479)
主な改修者 後北条氏
主な城主 千葉氏、里見氏、後北条氏
位置 北緯36度44分53.53秒
東経139度53分53.97秒
地図 羅漢の井
夜泣き石/里見弘次廟、里見諸将霊墓、里見諸士群亡塚
物見台
二重土塁と堀
明戸古墳石棺
【沿革】
「鎌倉大草紙」によれば、文明10年(1478)に扇谷上杉氏の家宰太田道灌が「下総国国府台」に陣取り、仮の陣城をかまえたとあり、これが国府台城のはじまりであるとする説がある。道灌は武蔵にいた千葉自胤を助け、敵対する千葉孝胤と戦うためにここに陣取り、境根原(柏市)に出陣し、孝胤を破っている。
これより以前の康正2年(1456)、千葉自胤は兄の実胤とともに「市川城」に立てこもり足利茂氏に抵抗していたが、梁田出羽守らにより城を落とされ、武蔵石浜(台東区)に逃れていた。この「市川城」と太田道灌の仮の陣城との関係が注目されるが、同じものなのかは不明である。

国府台は標高20〜25mの下総台地の西の端で、江戸川に平行して南へ張り出した大きな舌状の丘陵であり、現在の里見公園の中に土塁状の城郭遺構が現存している。そして北に向かっても城郭の遺構らしきものが確認される。
公園内の遺構は破壊が激しく築城の時期の想定することは難しいが、太田道灌の時代より後の時代に属する、とする推測もある。

この地は、その後天文と永禄の二度にわたり、小田原の戦国大名北条氏と安房の里見氏らにより行われた合戦、いわゆる国府台合戦の舞台となっている。天分7年(1538)の合戦は、北条氏綱と小弓公方足利義明・里見義堯らが戦ったもので、小弓(千葉市)に拠を定めた義明と北条が担ぐ本家筋の古河公方家との戦いである。これに対して永禄7年(1564)の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、これに対抗する里見義堯・義弘らの戦いであった(前年の永禄6年にも合戦があったとする説もある。)
永禄の合戦の結果、この合戦の中で激突する両郡の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、初期のものから戦国期の城郭に進化した、とする説もある。

現在の公園には、江戸時代になって作られた里見軍の慰霊のための供養塔が建てられている。
この地はその後、里見八景園という遊園地の敷地となり、その後は陸軍軍用地となり、終戦を迎えている。

【感想】
里見公園内の西側(江戸川方面)には当時の土塁らしきものが転々あるが説明板は何もない。明土古墳を利用してこれらの土塁は作られたのだろう。そこに石棺が2基あるが、当時の場所のままということで太田道灌も見ていたのかと考えると浪漫を感じます。
ちょっとした散策感覚で寄れる城跡です。
登城日 2010年2月14日(日)
LINK 市川市公式HP−里見公園
国府台城-Wikipedia
城主家紋 【月星(九曜に半月)】
(桓武平氏良文流)
千葉家家紋
【二つ引両】
(清和源氏新田氏流)
里見家家紋
【三つ鱗】
(伊勢平氏流)
後北条家家紋

                      

探訪
【江戸川河川敷と国府台城全景】
正面の川に突き出した木々の生える場所が国府台城址で現在は里見公園となっている。
【堀切跡?】 【羅漢の井】
羅漢の井の近くにパネルがありそこに書かれた絵から見ると羅漢の井前の通りは昔から通路になっていたようです。
【羅漢の井前の通路】 【物見台跡】
今は木々が生い茂り、周辺を見渡すことはできませんが、川岸近くまで行くと、下の写真のように対岸が良く見ることができます。
【夜泣き石】
伝えによると国府台合戦で多くの里見将兵が戦死し、里見軍武将里見弘次も戦死しましたが、弘次の末娘が父の霊を弔うため国府台の戦場にたどり着き戦場跡の凄惨な情景を目にして悲しみに打ちひしがれ、傍らにあったこの石にもたれ泣き続けついには息絶えてしまいました。
それからというもの毎夜この石から悲しい泣き声が聞こえるようになり、里人はこの石を「夜泣き石」と名づけました。
その後姫を供養すると泣き声は聞こえなくなりました。
弘次は15歳の初陣で亡くなってますので実際には弘次とは関係がない伝承です。
【里見弘次並びに里見軍将士亡霊の碑】
亡霊扱いがひどいですが、永禄7年(1568)北条との合戦(国府台合戦)において里見軍は大敗を期し里見弘次、正木内膳らをはじめ戦死者五千名と伝えられます。その後里見軍戦死者を弔うものもなく文政12年(1829)に里見諸士群亡塚(左側)、里見諸将霊墓(中央)が建てられ、年代は不詳ですが里見弘次公廟(右側)が建てられました。256年の最月を経てようやく弔らなわれました。
【江戸川対岸】
建設中のスカイツリーも見ることができます。
国府台合戦時にはこの対岸に北条軍がひしめき合ってたんでしょうね。当時は利根川になります。
【二重土塁】
【二重土塁】 【明土古墳】
明土古墳は、全長40mの前方後円墳で周辺からは埴輪が採集され埴輪から6世紀後半に造られたことがわかっています。
【明土古墳石棺】
二基の石棺は板石を組み合わせた箱式石棺で、後円部墳頂近くに造られ、今でもその位置を保っています。石棺の蓋と思われる板石は、夜泣き石の台座になっている。
【土塁】 【二重土塁と堀】 【紫烟草舎】
北原白秋が大正5年の夏から約1年間、当時小岩にあったこの離れで優れた作品の創作を続けました。江戸川の改修工事のために解体された建物をこの場所に復元しました。
【里見公園】 【国府台城址碑】 【土塁】
【土塁】 【総寧寺】
近江国観音寺城主佐々木氏が開山させた寺だが北条氏政が下総国関宿に移した。その後、関宿の地がしばしば水害にあうため徳川四代将軍家綱に願って国府台に移したそうです。
この碑には”曹洞宗里見城跡総寧寺”と掘られている。国府台城は里見城とも呼ばれたのだろうか?
【総寧寺山門】
現代風な造りになってるのが残念です。
【総寧寺本堂】 【国府台天満宮】
文明11年(1479)、当地の鎮守として太田道灌持資が建立したと伝えられています。



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