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城名 | 久留里城(別名:雨城、霧降城、浦田城) | ||
住所 | 〒292-0422 千葉県君津市久留里 |
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入場時間 | 君津市久留里城址資料館 午前9時〜午後4時30分 休館日 月曜日(休日の場合、翌日が休館) 年始年末(12/28〜1/4) |
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入場料 | 無料 | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 連郭式山城 | |||
天守構造 | 2重(1724年築)(非現存) 独立式望楼型2重3階(1979年コンクリート造り) |
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築城主 | 里見義堯 | |||
築城年 | 天文4年(1535) | |||
主な改修者 | 黒田直純 | |||
主な城主 | 上総武田氏、里見氏、後北条氏、大須賀忠政、土屋忠直、黒田氏 | |||
位置 | 北緯36度17分15.27秒 東経140度5分24.1秒 |
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地図 | 1 | 天守閣 | ||
2 | 天守台跡 | |||
3 | 波多野曲輪 | |||
4 | 薬師曲輪 | |||
5 | 堀切T | |||
【沿革】 久留里城は「城成就して、三日に一度づつ雨降ること二十一度なりしかば」(『久留里記』)という説から、別名を「雨城」と言います。 戦国期の16世紀中頃、西上総地方は真里谷武田氏の勢力下にあり、久留里城もその一族の居城でした(上の城)。天文年間(1532〜1555)の後半になると、安房の里見義堯は上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。 永禄7年(1564)、下総の国府台の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、久留里城も一時、北条方の手に落ちています。しかし、二年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を制圧します。その後、北条氏の勢力に押され、天正5年(1577)、里見義弘は北条氏と和睦します。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれています。 天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動をとったという理由から、上総の所領を没収されました。 以後、関東は徳川氏の支配になり、久留里城には大須賀忠政が三万石、慶長7年(1602)には、土屋忠直が二万石で入城します。江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石は、土屋家二代目の利直に仕え、18〜21歳までの青年期をこの久留里で過ごしています。三代目の頼直の時、お家騒動が起こり、延宝7年(1679)、領地召し上げ、廃城となります。 約60年後の寛保2年(1742)、黒田直純が三万石の藩主となり、幕府から五千両を拝領し、三年の歳月をかけ城を再興しています。黒田氏の治世は、初代直純から約130年間続き、9代直養(なおたか)の時、明治維新を迎え、明治5年(1872)、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられます。 【感想】 天守は模擬であるが、地形は往時のまま残っている場所が多く見所は多い。車道を行けば二ノ丸まではまっすぐに行けるが、従来の登城道を歩くことをお薦めする。いたるところに平場もありここにも何かあったのだろうなどと想像することが出来る。 |
登城日 | 2011年1月9日(日) | ||
LINK | 君津市立久留里城址史料館 |
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久留里城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【二つ引両】 (清和源氏新田氏流) 里見家家紋 |
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黒田家家紋 |
※説明書より(加筆あり) |
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【久留里城址公園入口】 | 【登城道】 直進すれば駐車場へ続く車道、左は従来の登城道 細いですがそれほど登りづらくないので城好きの方はこちらからがお薦め。 |
【従来の登城道入口】 |
【従来の登城道】 こんな感じの道が続きます。 |
【神明神社】 廃城になっていた久留里城は新藩主黒田直純の手で再普請されました。城山神明社は落成の延享22年、城の鬼門封じとして勧請されました。 |
【神明神社の狛犬】 丹生明神は高野山犬飼明神を祖神とするため鳥居前の狛犬は紀州犬になっている。 |
【火薬庫跡】 | 【火薬庫跡からの登城道】 | 【堀切T】 城に向かって右側は昔の面影が残っていますが左側は車道があるため改変されています。 |
【堀切T】 こちらが車道側。 |
【堀切T】 城側より見た堀切、車道側も堀切の後が分かるように保存されている。 |
【堀切T】 車道から見た堀切跡、上部の方でV字になっているのが良くわかる。 |
【堀切U】 ここも右側は残っているが左側は車道のため跡は残っていない。 |
【堀切Uと木橋跡】 | 【登城道】 堀切Uを越えた所から二ノ丸へ続く登城道。 |
【お玉ヶ池】 久留里城の二ノ丸には水源がなく不便な場所でした。城主の里見義堯は、家臣の兵馬に池を掘るように命じました。 あるとき、兵馬が池を掘っていると兵糧庫が焼失する事件が起こり、火の不始末の疑いで兵馬は捕らわれの身となります。城将小川秀政の娘「お玉」は、これを哀れんで、代りに池を掘り始めますが、兵馬は打ち首となってしまいます。その後、この疑いが解けると、お玉は髪を切り、兵馬を弔ったそうです。その謂れからこの名が付いています。 |
【薬師曲輪】 二ノ丸直下にある曲輪で、いまは展望台になっています。 ここから久留里城の三ノ丸、外曲輪などが見渡せます。 |
【薬師曲輪からの眺望】 |
【雨城八幡神社】 薬師曲輪の上に建つ。 |
【二ノ丸・長屋塀跡】 この長屋塀は、二ノ丸の西側に位置し、眼下に三ノ丸を望む場所に建てられました。本来は多聞櫓に近い性格の建物ですが、寛保年間の絵図に「長屋塀」と記されているところからこの名称を使っています。 |
【新井白石像】 |
【上総掘り方式 井戸掘り櫓】 明治中期m君津地方で考案され、飲料水、灌漑用水はもとより、石油や温泉の発掘にも使用された。現在も東南アジアやアフリカ諸国で使用されています。 |
【君津市立久留里城址資料館】 二ノ丸に建つ資料館、本丸に行く前によっていきましょう。 |
【二ノ丸から天神曲輪・本丸へ続く登城道】 |
【天神曲輪】 | 【登城道】 天神曲輪から本丸へ続く登城道。 |
【男井戸・女井戸】 伝説によると、この二つの溜め井戸は、奈良時代の僧・良弁(ろうべん)によて掘られ、「金剛水」、「胎蔵水」と呼ばれたそうです。 戦国期の籠城する際、この井戸により籠城にも耐えることが出来ました。 江戸時代、藩主の黒田直亨の頃から藩士の結婚式の際に新郎・新婦がこの水を飲み、夫婦の誓いを交わしたと言われています。そこからこの名がついたのでしょう。 |
【本丸への登城道】 | 【波多野曲輪】 | 【天守閣】 古図には二重天守が残されているですがこの天守は浜松城をモデルに建てた模擬天守です。 建つ位置も本来の場所はここから左にずれた場所になります。 |
【天守台跡と天守】 手前が本来の天守が建っていた位置になる。天守台保存のために場所を換え天守を建てたと考えられる。 |
【土塁】 この土塁の上には丹生(たんしょう)廟遺跡がある。 黒田直邦公が丹生大神を祀っていた。 |
【丹生廟遺跡】 現在は石碑と説明書きがある。 |
【天守台跡】 丹生廟遺跡から撮影。 |
【天守台跡】 天守より撮影。 |
【土塁】 本丸南側に残る土塁。 |
【土塀跡】 高さ六尺(1.8m)、瓦葺の土塀がありました。 |
【虎口跡?】 ちょうど土塁がここで切れているのでここに虎口があったと思われる。 |
【弥陀曲輪】 本丸東側より撮影。 |
【弥陀曲輪】 曲輪の入口付近から撮影。 |
【鶴の曲輪】 曲輪の両側は急崖となっている。 |
【久留里曲輪】 二ノ丸の車道の登城道側にある。やたらと石碑があるのがちょっといただけない。 |
【久留里曲輪】 車道側より奥にもう一段下がった曲輪があり、二段構成になっているのが分かる。(下段より撮影) |
【車道側登城道】 こちらは結構急な坂道です。 |
【車道側より見た堀切T】 赤線内側が堀切跡になる。 |
【久留里商店街入口】 | 【上総掘りの自噴井戸】 | 【上総掘りの自噴井戸 |
【高澤の井戸】 | 【高澤の井戸】 |
【吉崎酒造株式会社】 上総の名水「久留里の水」と厳選された酒米を使用したお酒の醸造元。 |
【正源寺】 徳治二年(1307)の創建で天文15年(1546)には久留里城主・里見義堯が母君の菩提寺としています。 |
【山門裏側】 山門には徳川三代家光公の時代に御朱印寺として寺領二十石を拝領しており、現在も山門の中央に「三つ葉葵」の御紋が見られます。 |
【本堂】 |
【加勢観音堂】 正源寺の本尊である聖観音立像は、別名加勢観音といい、義堯の守護仏です。その由来は、小田原の北条氏が久留里城を攻めた際、義堯が観音像を背負って戦を開始したところ、敵陣の矢は味方には一本も当たらず、北条軍は敗走していったとのことです。義堯が観音像に手を合わせると、観音像の背中に矢が刺さっていました。」おお、加勢してくださった。」それ以来加勢観音と呼ばれているそうです。 |
【加勢観音堂】 | 【加勢観音立像】 説明板の写真。 御開帳は、8月10日。 |
ジャンル:そば 店名:手打ちそば処 藤美 住所:千葉県君津市久留里市場138(久留里駅から約200m) TEL:0434-27-2194 写真は、ランチで野菜天ぷら(人参・椎茸・さつま芋・ピーマン・ナス)・もりそば・おにぎり2個・お味噌汁 \900-(大盛はプラス200円)。 香りも良くしっかりとした腰のある蕎麦でゆで方もちょうど良く角が立ってます。そして天麩羅に使用している野菜(人参、椎茸、さつま芋、ナス、ピーマン)が素材の味が生きていてとても美味しかったです。(おにぎりは撮るの忘れました^^;) |