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※赤線は大体の位置を示しています。
城名 相賀城(別名:逢賀城)
住所 〒311-2825
茨城県行方市根小屋
入場時間
入場料
指定文化財 なし
城郭構造 連格式平山城
天守構造 なし
築城主 逢賀太郎親幹
築城年

平安時代末期

主な改修者 手賀左近義元(相賀入道)
主な城主 逢賀氏、手賀氏
位置 北緯36度01分06.58秒
東経140度32分08.86秒
地図 一曲輪
二曲輪
三曲輪
四曲輪
横堀
【沿革】
相賀城は平安時代の末、逢賀太郎親幹が築いた逢賀城で、これを室町時代の末期に手賀左近義元(相賀入道)が再建し、相賀城と呼ぶようになったと伝えられています。
伝承によると、相賀入道の婿の彦四郎は小高氏の軍勢と戦い討死し、また相賀城最後の城主手賀三郎四郎は佐竹氏に攻められ滅亡したと言われています。

ここ(四曲輪)は「塚原」と云い、昭和四十年頃までは畑のあちらこちらに、大小の土塁が十個近く残っていました。嶋崎城の家臣、土子泥之助が矢幡の「要害台」より矢文を射たと伝えられ、「土子の矢止塚」らしき土塁が、北側の山の中に現存します。南には「八幡神社」、北は岡の「薬師堂」、更に西北の方に少し離れて「毘沙門台」など相賀城に関係の深い地名や遺跡が多くあります。


【感想】
龍翔寺から左側の道へ入り八幡神社を目指すと石段が一度切れる部分が一曲輪下の横掘りとなる。
一曲輪まで上がると周囲を土塁で囲まれてることがわかる上、帯曲輪があることも窺える。
一曲輪を出ると竹が生い茂っている堀の中を進むのでどの位置を歩いているかがわからなくなり、いつしか視界が開いた思ったら耕作地に出るこの耕作地が「塚原」と言われていた四曲輪のようである。
全体を通してみると一曲輪付近が堀切や横堀、竪堀などがあり技巧的な作りになっていることがわかります。

登城日 2012年3月3日(土)
LINK 
城主家紋

                      

探訪
【相賀山龍翔寺 説明板】
相賀城城主の菩提寺と言われている寺。
【相賀山龍翔寺】 【一曲輪下の横掘】
折れがあり食違いになっている。
【一曲輪下の堀】 【一曲輪下の竪堀】 【八幡神社の説明板】
【八幡神社】
ここが一郭になる。
【一曲輪の土塁】
一曲輪はこのような土塁に囲まれていたようである。
【展望台から見た北浦】
北浦の港があり、相賀城はこの港を抑える要衝の位置にあることが窺える。
【一曲輪下の曲輪】
帯曲輪と思われる。
【一曲輪下の曲輪】
帯曲輪と思われる。
【竪堀】
【堀切】 【堀切】 【竪堀】
【土橋と堀切】 【四曲輪】
ビニールハウス横に見える、緑の四角いものが城の案内板である。
【一曲輪下の土橋と虎口】



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