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※赤線は登城経路ですが大体の位置を示すものです。
城名 荒砥城(別名:新砥城)
住所 〒389-0822
長野県千曲市大字上山田3509番地1
入場時間 午前9時〜午後5時
入場料 一般:300円、中学生以下無料
指定文化財 なし
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 山田氏
築城年 大永4年(1524)頃
主な改修者 山田氏、屋代政国、屋代秀正
主な城主 山田氏、屋代氏
位置 北緯36度28分47.521秒
東経138度08分12.382秒
地図 本郭
二ノ郭
(物見)櫓
三ノ郭
四ノ郭
【歴史】
荒砥城は今から約400年前に、この地を治めていた村上氏の一族である「山田氏」によって築かれた城で、郭が連なるように並んでいたところから「連郭式山城」と呼ばれています。
荒砥城と千曲川をはさんだ対岸の山頂に築かれた葛尾城の城主村上義清は、上田原の戦い(1548年)や戸石城の戦い(1550年)で甲斐(現在の山梨県)の守護大名武田信玄との戦に勝ち、領地を守ってきました。しかし、武田氏の圧倒的な軍勢の前に、1553年ついに葛尾城は落城し、村上義清は塩田城(上田市)へ逃れ、上杉謙信に援軍を求めます。このとき荒砥城も城主を失い、山田氏は滅亡してしまいます。

その後屋代政国が城主となるが、その後有名な川中島の戦い(1553年〜1564年)で上杉謙信が屋代政国を攻め政国が戦死すると秀正が跡を継ぎます。
天正10年(1582)武田氏が滅亡すると上杉景勝は山浦(村上)景国を海津城将に、屋代秀正を副将にそれぞれ任命する。

天正12年(1584)徳川家康の調略により屋代秀正は、上杉に背き海津城を出て荒砥城に籠るが上杉軍に攻められ、屋代秀正は逃亡、荒砥城は落城し、その後廃城となり、城としての役割を終えることになります。

【感想】
よく復元された城跡で当時の山城の様子がよくわかります。
櫓門までの登城路は狭く、門前までも狭いため攻めては人数が制限され絶えず横からの攻撃にさらされることになる。
櫓門を突破してもすぐに右に曲がるためここでも横からの攻撃にさらされることになる。
規模は小さいものの攻撃的な構造になっているのがよくわかりました。

登城日 2012年12月2日(日)
LINK 長野市「信州・風林火山」特設サイト川中島の戦い-荒砥城跡
荒砥城-Wikipedia
城主家紋 【丸に上文字】
(清和源氏村上氏流)
屋代氏家紋

                      

探訪
【城址碑と案内所】
写真右側の通路を進むと四ノ郭跡になります。
【三ノ郭付近の石垣】 【二ノ郭の櫓門】
【二ノ郭の櫓門内側より】 【(物見)櫓より見た眺望】 【二ノ郭内の兵舎】
【二ノ郭内の兵舎】 【二ノ郭櫓門上】 【(物見)櫓】
二ノ郭櫓門上より。
【二ノ郭より見た本郭】 【本郭入口の冠木門】 【本郭の櫓門】
【本郭の櫓門】 【櫓門を通過後の登城路】 【本郭の櫓門内側より】
【櫓門に続く登城路】 【本郭より見た二ノ郭】 【本郭内館と兵舎】
【本郭櫓門上】 【本郭虎口】 【本郭より見た二ノ郭】



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