城名 | 小田城 | |||
住所 | 〒300-4223 茨城県つくば市小田 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 小田氏 | |||
築城年 | 不明 | |||
主な改修者 | 小田氏 | |||
主な城主 | 小田氏、梶原氏、小場氏 | |||
位置 | 北緯36度9分0秒 東経140度6分38秒 |
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登城日 | 一回目:2013年9月21日(土) 二回目:2023年2月23日(木) |
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LINK | つくば市公式ウェブー小田城跡歴史ひろば | |||
小田城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【洲 浜】 (藤姓宇都宮氏流) 小田氏家紋 |
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【歴史】 小田氏は小田城歴代の主として、常陸南部に勢力を持った一族です。同氏の祖、八田知家は源頼朝の信任厚く、最初の常陸守護に任じられました。建久4年(1193)には多気氏を失脚させ、常陸における地位を安定させました。しかしその安定期も短く、北条氏の進出により所領が縮小し、守護職も正和4年(1315)までには完全に失ったようです。 なお、小田氏が小田を本拠とする時期は、初代の八田知家から、あるいは小田を名乗り始める4代時知からなどの諸説があります。 勢力回復を目指す7代治久は、元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡時に後醍醐天皇の建武新政府に参加、南朝方の重臣である畠山親房を迎えたことにより、小田城は関東地方の南朝方の一大拠点となります。親房の有名な著書『神皇正統記』はこの時に執筆されました。しかし、翌年から北朝軍の攻撃を受け、同4年(1341)に治久は降伏、北朝方に従います。8代孝朝の代には足利氏への忠誠から旧領の大半を回復しますが、鎌倉府に反抗した小山若犬丸を匿ったために討伐を受け、再び忍従を強いられることになります。 戦国時代には、13代治孝が弟顕家に殺害されるという一族の内紛を経て、14代政治は再び勢力を拡大させ江戸・大掾・結城氏などと戦いました。後北条氏の北関東進出が激しくなると、15代氏治は、当初佐竹氏とともに上杉氏を後楯に対抗をしますが、後に後北条氏と結びます(永禄7年(1562))には上杉・佐竹氏により、小田城は落城します。氏治はその都度土浦城へ逃れ奪還を繰り返しますが、同12年(1569)に手這坂の戦いで佐竹・真壁氏に敗れた以後はそれもかないませんでした。天正11年(1583)に氏治は、佐竹義重に一時降伏、同18年(1590)には再び反旗を翻しますが奪還は果たせず、慶長6年(1601)に頼った結城氏の国替えで越前(福井県)に移り、彼の地で没しました。 小田氏が小田城を失った後は佐竹氏客将の梶原政景、佐竹氏一族の大場義成が居城としますが、慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田移封により廃城となります。その後は一時幕府領となり陣屋がおかれたこともありました。 【感想】 現在、城址公園整備のため内部の立入が出来なく外部からの見学となった。細部まで見ることが出来ないのは残念ではあったが整備終了後再訪する楽しみが出来たと思います。 約10年振りに訪れてみると整備も完了していました。本丸内が綺麗に整備されていたのですが、本丸大手口の場所が北側だったのが、理由は分からないですが、整備後は東側に変わっていました。城址碑も東側に移動されていました。 |
※現地工事掲示物より |
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【本丸大手口土塁】 | 【筑波鉄道筑波線跡】 この路線は小田城を横切るように通っていた。写真は本丸北西側。 |
【南側土塁】 |
【本丸跡】 ここが臆病口付近になる。 |
【臆病口付近より見た涼台跡】 | 【南側馬出跡】 |
【涼台跡】 | 【涼台跡】 | 【南側堀】 |
※案内板より |
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【本丸北側堀と復元土塁】 | 【本丸西側のりんりんロード】 | 【本丸内園地域の復元大溝と復元土塁】 左:園地域、右:建物域 |
【本丸内園地域の復元大溝と復元土塁】 左:園地域、右:建物域 |
【本丸南側復元土塁】 | 【東池跡】 |
【涼台跡】 | 【涼台跡から見た本丸跡】 | 【東虎口の復元土塁】 |
【東虎口(本丸大手口)】 | 【城址碑】 | 【東曲輪跡】 |
【東曲輪跡】 | 【本丸東堀と鐘楼台跡】 鐘楼台の上には鐘撞堂があったようです。 |
【曲輪Wの土塁】 |
【北虎口跡】 以前はこの場所が本丸大手口とされていました。 |
【南西虎口(臆病口)跡】 この場所の石積の石はプラスチック製になっています。 |
【南西虎口(臆病口)跡】 |
【南西馬出跡】 | 【南西馬出跡から見た南西虎口跡】 | 【南西馬出跡から見た涼台跡】 |
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【曲輪Xから見た南西馬出跡】 | 【曲輪Xから見た本丸方向】 | ― |