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※赤線は登城経路ですが大体の位置を示すものです。
城名 木原城(別名:神越城)
住所 〒300-0421
茨城県稲敷郡美浦村大字木原
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 土岐治英/近藤氏
築城年 不明
主な改修者
主な城主 近藤利貞、近藤氏元、近藤義勝
位置 北緯36度1分14秒
東経140度17分27秒
地図 詰城(本丸)跡
二ノ丸跡
三ノ丸跡
稲荷曲輪
弁天池
【歴史】
木原城は近藤氏の居城で、土岐氏に属していた。近藤氏について詳細は不明だが上杉氏の家臣として外部から入って来た勢力と考えられている。「信田庄契約中」の中に「近藤越後入道」の名があり、少なくとも15世紀中頃にはその存在が史料上で確認できる。木原城の外郭に位置する永厳寺の史料では、近藤氏は永正元年(1504)に伊佐部村(現稲敷市)から「神越之城」(永正3年に神越を木原に改めた)に移ったとある。また一説には永禄5年(1562)に土岐治英が築城し近藤氏に与えたともある(『新編常陸国誌』)。小田氏と土岐氏が戦った屋代合戦にさいして、土岐氏の一手として小田氏と合戦している「近藤八郎三郎」の姿が確認され、この頃には上杉氏の衰退により土岐氏に従属する立場であったことが確認できる。
近藤氏は土岐氏の中でも、やや独立した勢力として「木原領」とも呼べる領域を確保していた。

木原城は近世城郭と見間違えるほどの大規模な堀や土塁を備え、城域もその領国とは見合わないほどの規模であり、このように大規模な城郭に改修されたのは戦国時代でも末期頃のことと思われる。戦国時代末期に後北条氏に従属した土岐氏の領域は、大きく見た場合には後北条氏領国における常陸戦線で最北端に位置していた。そのため土岐氏と佐竹氏、いわば後北条氏と豊臣氏の緊張関係によって築かれたもの出る可能性も指摘されている。
参考文献:『関東の名城を歩く 北関東編』

【感想】
三ノ丸、二ノ丸は田畑などになっているが本丸は公園として整備されその周囲の遺構は良好に残っているため往時を偲ぶことができる。特に稲荷曲輪付近は櫓跡とされ、その下の堀は草木で覆われてはいるものの15m位の深さがあり必見です。
また、権現神社があった付近に建てられている展望台からは霞ヶ浦が一望でき、そこからの風が心地よかった。


登城日 2013年9月21日(土)
LINK 木原城-Wikipedia
城主家紋 ※近藤氏家紋不明

                      

探訪

※説明板より
【二ノ丸虎口】 【二ノ丸跡】 【二ノ丸跡】
【本丸堀と土橋】 【本丸堀】
その深さは10m以上もある。
【本丸大手口】
【本丸土塁】 【本丸跡】
展望台より、遠くに霞ヶ浦が見える。
【中世の堀跡】
木原城詰曲輪(本丸)を仕切る堀跡で深さ1m、幅2mある。
【古代の環濠跡】
弥生時代から古墳時代にかけて造られた堀の跡で、深さ1.5m、幅3mで断面がVの字状に掘られています。
【本丸土塁】 【稲荷曲輪】
ここに櫓が建っていたものと思われる。
【稲荷曲輪下の堀跡】 【弁天池】



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