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※赤線は登城経路ですが大体の位置を示すものです。
城名 沼田城(別名:蔵内城、倉内城、鞍打城、霞城)
住所 〒378-0042
群馬県沼田市西倉内町
入場時間 旧生方家住宅
午前9時〜午後4時
休館日
毎週水曜日、国民の祝日の翌日
年始年末(12月29日〜1月3日)
入場料 大人:100円、小人:60円
指定文化財 沼田市指定史跡
城郭構造 崖端城
天守構造 5層6階層塔型天守(非現存)
※慶長2年(1597)築説と慶長12年(1607)築説有り。
築城主 沼田顕泰
築城年 天文元年(1532)
主な改修者 真田信之
主な城主 沼田氏、本庄秀綱、猪俣邦憲、真田氏
位置 北緯36度38分55.4秒
東経139度02分20.5秒
地図 天守跡
西櫓跡
本丸堀跡
本丸櫓門跡
三ノ丸土塁
【歴史】
沼田市は群馬県の北部に位置し、四方を山に囲まれた盆地を中心として、利根川や薄根川・片品川周辺には非常に高い河岸段丘が発達しています。

沼田公園のある崖上の台地に最初に城を築いたのは、鎌倉時代以来この地方の有力者であった沼田氏の12代沼田万鬼斎顕泰(長野業政の娘婿)で、天文元年(1532)4月に完成させ、柳町の幕岩城から引移った。この頃、この城は蔵内城と称していた。

沼田顕泰は城を三男弥七郎朝憲に譲り、川場村に隠居するが、側室の兄・金子美濃守泰清の諫言に惑わされ、朝憲の家臣を遠ざけてしまいます。 永禄12年(1569)1月、金子美濃守は朝憲を川場村で暗殺し、妹と顕泰の子、平八郎景義を次期城主に擁立しようと目論見ます。 しかし沼田城にいた朝憲の妻子、縁者はこれを良しとせず上杉氏の厩橋城城代で舅の北条丹後守高広に助勢を願い川場村勢へ合戦をしかけました。結果、越後の助勢も得た城方に川場村勢はかなわず、顕泰は側室と平八郎景義を連れ、会津城の蘆名盛重を同族の誼を通じて落ち延びます。そのため城主を失った蔵内城は越後上杉氏の属城となります。この時、本庄秀綱が城代として入ります。

天正6年(1578)、 謙信が急死し、後継を巡って北条家からの養子上杉景虎と謙信の一門にあたる上田長尾氏の政景からの養子長尾顕景(後の上杉景勝)が対立し御館の乱が起こります。
そのとき沼田城も同じく北条方と長尾方の間で争います。同5月、沼田は景虎擁護のために出張った北条の軍勢3万余が陥落させ、沼田城主に猪俣能登守を置き、城将として藤田信吉・金子美濃守を入れます。 しかし翌年には上杉景勝の勝利によって御館の乱は終結し、景虎は自刃して果てました。 それにより沼田城内は動揺します。

天正8年(1580)、武田勝頼の命により沼田に進出した真田昌幸はこの動揺に付け込み、謀略をめぐらせ、城将の藤田信吉・金子美濃守に内応を説きつつ、元信州先方衆の矢沢頼綱を総大将にして沼田・名胡桃攻略へ出陣させます。 先に名胡桃城を攻略すると金子美濃守が降伏、包囲された沼田城は藤田信吉が開城し武田氏の城となり昌幸が入ります。この頃から沼田城と呼ばれるようになった様です。

翌天正9年(1581)2月には会津に身を寄せていた沼田平八郎景義が金山城主由良国繁をはじめ上州諸豪族に助勢を得て、三千の兵を興し沼田城奪回を開始します。昌幸は沼田平八郎景義と正面から戦っては勝てないと知り城中にいた金子美濃守をだました。貪欲な美濃守は己が栄進したいため平八郎に会い武装を解き、こっそり城内に入れて「お前が必ず城主になれるようにしてやる」と偽り城内へ誘い入れて殺害し沼田氏を滅亡させました。

天正10年(1582)、武田氏滅亡後、昌幸は織田信長に属し、沼田城には滝川一益の弟義太夫が城代となった。その後、同天正10年6月2日の本能寺の変により信長が討たれると昌幸は沼田城を掌握が、その直後に天正壬午の乱(支配していた滝川一益が本領伊勢長島城に引き上げたため空白地となった甲信上州の争奪戦が行われた)が起こり、徳川氏と後北条氏の間で沼田領帰属問題が持ち上がるが、昌幸はいずれの提案も拒否する。これは後年の上田合戦や後北条氏による度重なる侵攻を招くことになるが、いずれも退けている。

そのような状態の中、天正11年(1583)に沼田城と上田城の築城を開始し、沼田城は城域を東南に開き、堀・土塁等の普請、広間・居間等の作業を行った。天正14年(1586)、沼田城の普請は続き、天正15年(1587)長男信之が徳川家康の駿府城で対面し、天正16年(1588)本多忠勝の娘で、家康の養女・小松姫(稲姫)を娶ったことにともない奥御殿の普請が始まった。

天正17年(1589)信長の後継者となった豊臣秀吉の裁定により沼田領帰属問題は、真田ゆかりの地である名胡桃は真田氏、沼田の地は北条氏の支配となり、再び猪俣邦憲が沼田城の城代として入ることで終結したかのように見えたが、同年に邦憲が昌幸の名胡桃城を略奪したことで、豊臣氏による小田原征伐が起こる。これにより北条氏は豊臣秀吉の小田原城攻めにより滅亡しました。
秀吉は真田昌幸に対し信濃2郡と利根・吾妻の旧領を安堵し、天正18年(1590)に昌幸は沼田城を嫡子の信之に与え、信州・上田城へ移りました。それに伴い信之は、城の大改修を行い、二の丸、三の丸、堀、土塁、大門等の普請の後、慶長2年(1597)(一説には12年)には5層6階の天守が完成したと云われています。

慶長5年(1600)に関が原の戦いが起こると本多忠勝の娘で徳川家康の養女の婿である信之は東軍に属し、大谷吉継の娘婿の信繁と父・昌幸は西軍に属した。関ケ原の戦いで勝利を収めた東軍に属していた信之は父の所領分、軍政による加増分を合わせ、約9万5千石を領し、沼田城を子の信吉に与え、信之は本拠を上田に置く。その後元和8年(1622)に信之は松代藩へ加増移封となるが沼田領はそのまま真田領になり、約1世紀にわたって沼田領を治めていましたが、天和元年(1681)11月、5代信利は江戸両国橋用材の伐出し遅延と失政の名目で城地は没収、改易となりました。城は幕府に明け渡され、翌2年に城はすべて破却されて堀も埋められました。

真田氏改易後、旧真田領は天領となりましたが、元禄16年(1703)本多正永が幕府より沼田城復興を命ぜられ2万石で入封しました。しかし、城の本格的な復興はなされず、城破却で埋められた堀の整備や土塁の構築などが行われたのみで、本多氏3代のあとは再び代官支配となり、土岐氏12代・頼知のときに明治維新を迎えて沼田城は廃城となりました。
真田氏改易以降は三の丸に藩邸が建造されたものの、天守が再び建造されることはありませんでした。

大正5年(1916)、旧沼田藩士の子である久米民之助は、城地の荒廃を惜しみ私財を投じ購入し、公園として整備した。
その後、大正15年(1926)に沼田町に寄付されました。


【感想】
遺構についてはあまり期待していなかったのですが、本丸西櫓台付近には石垣も残り、城らしさが味わえます。この時に地元の方に話を掛けられ城の説明や案内をして頂き、ただの貯水池かと思っていたところは本丸堀跡で本丸側には真田時代の石垣が残っていることがわかりました。
そして本丸櫓門付近にぽっつんと置かれた礎石はその櫓門の礎石ということ、そして二ノ丸の土塁と思われたものが実は野球場を造成する際に造ったものだと聞かされました。ただ、これに関してはお城関係の本には二ノ丸土塁としているものあるのではっきりしたことがわからない。しかし、ここでは地元の方の話を信じて記載している。
地元の方に案内していただき非常に有意義な探訪となりました。


登城日 2013年11月2日(土)
LINK 沼田市ホームページ〜沼田公園〜
沼田城-Wikipedia
城主家紋 【三つ頭巴】
(平姓三浦氏)
沼田氏家紋
【六文銭】
(滋野氏流海野氏族)
真田氏家紋

                      

探訪

※旧生方家住宅内パネル(日本城郭体系)より

絵図面(本丸説明板より)※加筆有
【沼田城址遠望】
急峻な崖の端に造られていることがよくわかる。。
【崖上からの眺望】 【崖上からの眺望】
【沼田公園入口】 【三ノ丸土塁】 【三ノ丸堀跡】
【三ノ丸跡】 【沼田城址碑】 【本丸堀跡と保科曲輪跡】
調度影っている部分が堀跡になる。
【二ノ丸跡】 【土塁】
これは野球場造成時に作ったもので、遺構ではないとのこと(地元の人談)。
【本丸櫓門礎石】
【木橋・本丸堀・本丸櫓門跡】 【本丸櫓門跡】 【本丸堀跡】
正面はテニスコートになっている、この堀跡の右手側に真田時代の本丸石垣が確認できる。
【真田時代の本丸石垣】 【三重櫓跡】 【本丸跡】
【天守跡】
ここに5層6階の天守が建っていたとは思えないほど何も残っていない。
【本丸の絵図面が描かれた説明板】
手前にあるのは門柱を支える石組みの様です。
【本丸南側の崖】
【本丸からの眺望】 【鐘楼】
真田氏時代は城内にあったが廃城により取り壊されたものを本丸に復元した。当時の城鐘は県の重要文化財に指定され現在は中央公民館で保存されている。
【西櫓台の石垣と石段】
【西櫓台石垣】 【西櫓台石垣】 【西櫓台石垣】
【本丸と捨曲輪の間の天然の堀(崖)】 【捨曲輪】 【平八石】
沼田平八郎景義(沼田氏12代顕泰の側室の子)は、沼田城奪還のために兵をあげ沼田に迫ったが騙し討ちに合い殺害された。平八郎の首級は真田昌幸が首実検後、この石の上に置いた。亡骸は小沢城址に葬り、沼田大明神として祀ったが、首級はここから亡骸を埋めたところまで飛んで行ったという。
【捨曲輪北側の堀跡】 【重文 旧生方家住宅】
この屋内に沼田城の資料や模型が展示してある。
【沼田城の模型】
【沼田城天守模型】



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