城名 | 名胡桃城 | |||
住所 | 〒379-1314 群馬県利根郡みなかみ町下津3462 |
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入場時間 | 名胡桃城址案内所 午前9時〜午後4時 休館日:木曜日 |
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入場料 | 無料 | |||
指定文化財 | 群馬県指定史跡 | |||
城郭構造 | 連郭式山城格崖端城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 名胡桃氏 | |||
築城年 | 室町時代 | |||
主な改修者 | 真田氏 | |||
主な城主 | 名胡桃氏、真田氏(城代:鈴木重則) | |||
位置 | 北緯36度40分40秒 東経138度59分20秒 |
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続日本 1000名城 |
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スタンプ 設置場所 |
名胡桃城址案内所 | |||
登城日 | 一回目:2013年11月2日(土) 二回目:2020年5月1日(日) |
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LINK | 雪国観光圏〜名胡桃城〜 | |||
名胡桃城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【三つ頭巴】 (平姓三浦氏) 沼田氏家紋 |
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【六文銭】 (滋野氏流海野氏族) 真田氏家紋 |
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【歴史】 名胡桃城は室町時代に沼田氏の一族と言われる名胡桃氏が、館(般若郭・現在の駐車場)を築いたのが始まりといわれています。この付近は、上野と越後を結ぶ三国峠道と清水峠道、さらに鳥居峠を越えて信濃に通じる道にも近いために、軍事上戦略的に重要視されていたのです。天文21年(1552)、北条氏康に攻められ、上野の平井城(藤岡市)にいた関東管領上杉憲政は、三国峠を越えて越後の長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めました。景虎は憲政の要請に応じて初めて上野に進攻し(越山)、沼田城の北条氏と対峙したのですが、戦いを交えず越後に兵を引きました。謙信が上野に進攻した回数は14回に及んだといわれています。 天正6年(1578)3月、謙信が春日山城で急逝すると、北条氏政は上野に進攻してきました。武田勝頼も上野に進攻し、謙信が没して70日を過ぎた同年5月23日には布施(みなかみ町)を中心に勢力を持っていた六人衆に対して、「沼田を手中にした時には一人15貫文を与える」という朱印状を出しています。 天正7年(1579)には、勝頼の命を受けた真田昌幸が信濃から吾妻・利根に進攻し、点在する山城・砦を手中にして、小川城の小川可游斎とともに名胡桃館を攻略しました。そして沼田城を手中にする前線基地として、隣りに名胡桃城を築いたのです。 天正8年(1580)昌幸は、念願の沼田城(北条氏の城代藤田信吉)を戦わずに、調略しました。 天正10年(1582)には、3月11日に武田氏が滅び、6月2日に織田信長が本能寺で倒れるとという事件が起こりました。武田・織田という強力な大名の失せた情勢の中、同年10月29日、北条氏政と徳川家康の間で重大な約定が結ばれました。それは「北条氏が真田氏と領有を争っていた利根・吾妻の二郡は北条氏に、甲斐の都留郡と信濃の佐久郡は徳川に」というものですが、この約定は真田昌幸には知らされませんでした。 天正11年(1583)、昌幸は徳川氏の支援を得て、信濃に上田城を築きました。 天正13年(1585)、昌幸は「利根・吾妻の二郡を北条氏に渡すように」という家康からの要請を拒絶し、上田城に攻めてきた徳川軍を撃退しました(第一次上田合戦)。同年、豊臣秀吉が関白に叙任されました。 天正17年(1589)2月3日、秀吉の臣下となっていた真田昌幸の嫡子信幸は、徳川家康の元に出仕しました。この頃、関白太政大臣秀吉は全国の諸大名に上洛を命じていました。しかし、命には従わない大名の一人北条氏は、上洛の条件として利根・吾妻地域の領有を要求しました。これに対して昌幸は、「沼田城は渡しても臣の墳墓の地である名胡桃城は渡すことはできない」と訴えたと伝えられています。このため、秀吉は津田隼人正と富田左近将監を検分史として派遣し、その報告を基に、「利根川を境として、沼田城を含む東部一帯を北条に、名胡桃城を含む西部一帯ただし、赤谷川の左岸に限って真田に」という裁定を下しました。この結果、沼田城には鉢形城主北条氏邦の重臣猪俣邦憲が、名胡桃城には真田昌幸の家臣鈴木主水が、城代として入りました。 しかし、同年10月下旬頃、沼田城代猪俣邦憲が、名胡桃城を不法に攻略するという事件が起きたのです。報告を受けた秀吉は激怒し、11月21日付けの書状を真田昌幸に与え、北条氏直に対して11月24日五条からなる布告を発しました。これに加わった諸大名の率いる兵力は20万とも22万ともいわれ、国内の戦いでは最大のものと伝わっています。 天正18年(1590)3月に始まった小田原攻めは、4ヶ月後の7月5日、北条氏政・氏直が秀吉の前に降伏することによって終わりました。強硬派として絶対の力を持っていた氏政と氏照は自刃しました。五代当主の氏直は家康の娘婿であったためか助命され高野山に追放となりましたが、翌年には許されて一万石を給されました。しかし、氏直は30歳で病没し、五代百年余りにわたって関東の覇を唱えた北条氏は、ここに滅亡したのです。その後、名胡桃城は廃城となり、結果的に城として機能したのはわずか10年の間でした。この名胡桃城の領有をめぐる小さな事件が、120年余り続いた戦国時代に終止符を打つことになり、日本の歴史の流れを変えるきっかけともなったのです。そのため名胡桃城は日本史上、大変重要な山城であったといえます。 「群馬県指定史跡 名胡桃城址」パンフレットより 【感想】 初めて名胡桃城に訪れたが、JR後閑駅からここに来ると、利根川を越えこの城が崖の端に築かれることがわかります。しかし、城の場所はわかっているのに登城口が見つからないのです。おかげで西側の谷を歩くも国道17号(月夜野バイパス)の下に道が続くだけで上には上がれず、仕方がないので反対がの東側の谷でようやく名胡桃城址の反対側の山へ上る道がありそこから国道17号に出れました。国道17号に出るとすぐ目の前に名胡桃城址の看板が…車で来ると問題ない城ですが、JR後閑駅から行くと目印もなく苦労します。もし徒歩で城跡に行くのであれば上越新幹線の上毛高原駅から行く方が楽です。 まぁ、後閑から来ることで城址の地形もわかりかえって良かったかもしれませんね。城址は整備され見やすいですが、平坦な平場と化しています。本丸より先のささ郭、物見郭の方が逆に面白みがありました。 |
※名胡桃城址案内所内に置いてあった縄張図より |
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【名胡桃城址遠望】 | 【名胡桃城址下に流れる川】 | 【崖下から見た本丸跡】 ここから見ると崖端に築かれていることが良くわかる。 |
【馬出郭】 | 【外郭】 | 【三ノ郭堀切】 |
【土橋と三ノ郭虎口】 | 【三ノ郭堀切】 | 【三ノ郭跡】 |
【殿坂跡】 崖下より般若郭虎口へと続く殿坂があった。 |
【二ノ郭の堀切】 | 【二ノ郭へ続く土橋】 |
【二ノ郭の堀切】 | 【二ノ郭食違い虎口跡】 | 【二ノ郭跡】 |
【二ノ郭東側にある腰郭】 | 【本郭堀切】 ここには木橋が架かっていたと思われる。 |
【本郭虎口跡】 |
【名胡桃城址碑T】 | 【本郭跡】 | 【名胡桃城址碑U】 |
【ささ郭堀切】 | 【ささ郭の土囲(土塁)】 | 【ささ郭跡】 |
【袖郭T跡】 ささ郭より一段下がった小さな郭。 |
【袖郭U跡】 袖郭TとUの間には深い堀切がある。 |
【物見郭跡】 袖郭Uと物見郭との間にはさらに深い堀切がある。降りたら登れないかと思い、望遠にて撮影。ここが崖の端でありここより北、北東、東方面を見渡せる物見には最適な場所であったであろう。 |
【般若郭跡】 名胡桃氏の頃はここに名胡桃館があった。 |
【般若郭堀切】 ここに殿坂が繋がっていた。 |
【名胡桃城址案内所】 外郭跡に建っている案内所、ここに城の資料が置いてあります。 |
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【外郭・水之手郭方面】 | − | ー |
【般若郭跡】 | 【名胡桃城址看板】 | 【名胡桃城址看板裏の説明板から見た城址】 |
【馬出跡から見た城址】 | 【馬出跡】 | 【三ノ郭堀切】 |
【三ノ郭跡】 | 【ニノ郭堀切に架かる木橋】 前回来たときは土橋でしたが木橋が復元されている。 |
【ニノ郭堀切】 |
【ニノ郭の木橋と食違い虎口】 | 【ニノ郭の食違い虎口】 前回来たときは分かり辛かったが、綺麗に整備され分かりやすくなった。 |
【ニノ郭堀切】 |
【ニノ郭跡】 | 【ニノ郭櫓跡と虎口】 | 【ニノ郭の本郭側食違い虎口】 |
【本郭堀切と木橋】 | 【本郭跡】 | 【名胡桃城址碑】 |
【ささ郭堀切】 | 【ささ郭の桜】 | 【ささ郭跡】 |
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【袖郭T跡】 | − | − |